孫登と孫和の違い2

昨日の記事について、孫登の皇太子妃は周氏ではなく芮玄の娘ではないかというご指摘をいただいた。

(孫)權為子登揀擇淑媛、羣臣咸稱(芮)玄父祉兄良並以得義文武顯名三世、故遂娉玄女為妃焉
(『三国志』巻六十一、潘濬伝注引『呉書』)


確かに、この芮氏は皇太子妃として選ばれているところからすると、周氏より後、皇太子になってからの孫登の正妻になっている。



これ完全に自分の無知によるものである。ご指摘いただいた方に感謝である。


子(孫)璠・希、皆早卒。次子英、封呉侯。
(『三国志』巻五十九、孫登伝)


ただ、孫登には璠・希・英という男子がいたらしいことが分かっている。



この子らの中には、周氏を母として生まれた子もいたのではないだろうか。皇太子になるまでの数年間でも、周氏との間に子が生まれても何の不思議もない。



上の2子は早死にしたというが、実際ににいつ死去したのかは分からない。孫登が皇太子として健在だったころはまだ生きていた可能性も十分ある。また可能性としては孫英が周氏の子である可能性だって無くはない。



であれば、孫登が皇太子だった時点では、孫登が皇帝になれば、周氏を母とする子がその皇太子となり、その子の縁戚として歩氏が孫登(とその次の世代の)政権に食い込める、という期待が持てていた、ということになる・・・のかもしれない。



そして、孫和が皇太子になると、孫魯班ら歩氏系統の集団にしてみれば孫登の時のような次世代への期待感がない(孫魯班と孫和の母王氏の関係が悪い上に、皇太子妃の実家筋が張氏と諸葛氏に当たるためつけ入るスキがない)ことから、皇太子交代という強硬手段に出るしかなくなった、と・・・。




まあ、これは憶測だが。