4人の王

(赤烏五年)百官奏立皇后及四王、詔曰「今天下未定、民物勞瘁、且有功者或未録、饑寒者尚未恤、猥割土壤以豐子弟、崇爵位以寵妃妾、孤甚不取。其釋此議。」
(『三国志』巻四十七、呉主伝、赤烏五年)


孫権は息子孫和を皇太子に立てた後、百官による「皇后と4王を立てるべき」という上奏を受けたが、それを却下した。



ところで、「4王」は誰の事を言っているのか?



王になるのは皇帝孫権の子が第一だろうから、この時に健在だった皇子として孫覇・孫休・孫奮が入っているだろうとは思う。


孫亮はまだ生まれてもいないはず。



孫登と孫慮は既に死んでいる。



そうなると1人足りない。





おそらくだが、孫登の息子を王に立てようとしていたのではないだろうか。


魏でも曹丕の兄曹昂の後継者が最終的に王になっている。似たようなことだったのではないか。



孫和の立太子を推したのが孫登だという関係もあるので、皇太子孫和の藩屏として申し分ない、といった要素もあったかもしれない。