消された事績

(董)賢所厚吏沛朱詡自劾去大司馬府、買棺衣收賢尸葬之。王莽聞之而大怒、以它辠撃殺詡。詡子浮建武中貴顯、至大司馬・司空、封侯。
而王閎王莽時為牧守、所居見紀、莽敗乃去官。世祖下詔曰「武王克殷、表商容之閭。閎修善謹敕、兵起、吏民獨不爭其頭首。今以閎子補吏。」至墨綬率官、蕭咸外孫云。
(『漢書』巻九十三、佞幸伝、董賢)

前漢末のかの有名な董賢に恩を受けた朱詡は野ざらし状態となった董賢の遺体を回収したことで王莽の怒りを買い殺されたが、その息子は光武帝の時代に三公・列侯にまで至った。




一方、哀帝が董賢への禅譲を示唆した際に諫言した王莽の従兄弟王閎は王莽時代に太守や州牧となったが、王莽が敗れると官を去った。光武帝は彼の息子を官吏に任命した。




とあるのだが、これはちょっとおかしいところがある。




王閎者、王莽叔父平阿侯譚之子也、哀帝時為中常侍。・・・(中略)・・・及王莽簒位、僭忌閎、乃出為東郡太守。閎懼誅、常繫藥手内。莽敗、漢兵起、閎獨完全東郡三十餘萬戸、歸降更始。
(『後漢書』列伝第二、張歩伝)

帝乃遣使告(張)歩・(蘇)茂、能相斬降者、封為列侯。歩遂斬茂、使使奉其首降。歩三弟各自繫所在獄、皆赦之。封歩為安丘侯、後與家屬居洛陽。王閎亦詣劇降。
(『後漢書』列伝第二、張歩伝)

後漢書』が記すところでは王閎は更始帝に降伏しており、更にその後は張歩らと共に梁王劉永勢力の傘下に入り、最終的には光武帝に降伏している。





直前の記事で朱浮の光武帝時代の事績に言及している『漢書』編纂者班固にとって、王閎の王莽以降の経歴がわかっていなかったとは思いにくい。




光武帝から見ると敵であった劉永らに従っていたという過去をすっとばして敢えて記録しないようにしていたと見るべきだろうか。