広平

割河内之蕩陰・朝歌・林慮、東郡之衛國・頓丘・東武陽・發干、鉅鹿之廮陶・曲周・南和、廣平之任(城)、趙之襄國・邯鄲・易陽以益魏郡。
(『三国志』巻一、武帝紀、建安十七年)

曹操が魏公になる前年、魏郡に複数の県が他郡から追加された。


省并西京十三國。廣平屬鉅鹿、真定屬常山、河輭屬信都、城陽屬琅邪、泗水屬廣陵、淄川屬高密、膠東屬北海、六安屬廬江、廣陽屬上谷。
(『後漢書』紀第一下、光武帝紀下、建武十三年)


そのうち「広平」は、前漢にはあったが後漢初期に廃止された諸侯王国の名称である。



ということは、後漢末には「広平」がまた郡または国としてまた独立していたということのようだ。





改許縣為許昌縣。以魏郡東部為陽平郡、西部為廣平郡
(『三国志』巻二、文帝紀、黄初二年)

その一方、魏は禅譲を受けた翌年に魏郡の西部を「広平郡」として分割したのだそうだ。



後漢末にあった方の「広平」と名前が被るわけだが、後漢末の方は既に廃止されていたのか、それとも魏郡西部と後漢末からあった「広平」を合体させたのが魏の「広平郡」だったのか、それともどちらでもない事情があったのか。

よくわからない。






結論としては、陳寿は今からでも『三国志』に「地理志」を追加するべきだ、ということになる。