『漢書』王莽伝を読んでみよう:中その8

その7の続き。


天下牧守皆以前有翟義・趙明等領州郡、懐忠孝、封牧為男、守為附城。
又封舊恩戴崇・金渉・箕閎・楊並等子皆為男。
遣騎都尉囂等分治黄帝園位於上郡橋畤、虞帝於零陵九疑、胡王於淮陽陳、敬王於齊臨淄、愍王於城陽莒、伯王於濟南東平陵、孺王於魏郡元城、使者四時致祠。
其廟當作者、以天下初定、且祫祭於明堂太廟。
(『漢書』巻九十九中、王莽伝中)


天下の州牧、太守はみな以前翟義・趙明の乱があった時に州・郡を領有しながら忠義と孝行を保った者であるので、州牧を男爵、太守を附城に封じた。



また旧恩のあった戴崇・金渉・箕閎・楊並らの子を男爵とした。



騎都尉囂らを派遣して分担して黄帝を祭る園(墓所)と位牌を上郡の橋山に作り、虞舜の園と位牌を零陵郡の九疑山に作り、胡王(陳胡公)の園と位牌を淮陽郡陳県に作り、敬王(田完)の園と位牌を斉郡臨淄に作り、斉の愍王の園と位牌を城陽郡莒県に作り、伯王(王遂)の園と位牌を済南郡東平陵に作り、孺王(王賀)の園と位牌を魏郡元城に作り、使者に季節ごとに祭りを行わせた。廟を作るべきところではあったが、天下が定まったばかりであったことを理由に、当面は明堂の太廟で祭祀を行うこととした。


戴崇・金渉・箕閎・楊並らについては、以前(「上その2」)に出てきている。王莽かけだしの頃に推薦してくれた人たちである。


ちなみに王莽を推薦した者のひとり陳湯の子孫がこの時の封爵に入っていないのは、平帝の時に既に陳湯の子が「破胡侯」に封じられているからだろう。陳湯は匈奴単于を討った功績が一応あったので、他の者よりも爵位に近かったのである。



文・景間、安孫遂字伯紀、處東平陵、生賀、字翁孺。・・・(中略)・・・翁孺既免、而與東平陵終氏為怨、乃徙魏郡元城委粟里、為三老、魏郡人徳之。
(『漢書』巻九十八、元后伝)


「伯王」とは王遂、字伯紀のことで、彼は東平陵に住んだ。


そしてその子が王賀、字翁孺であり、彼の時に魏郡元城県へ移住した。この王賀の孫が元后である。




王莽が園を作ったのは、どれも基本的にはそれらの人物が死んで葬られた場所のようだ。移住などの転機をもたらした者をこのように特に祀ることにしたのだろう。