『晋書』宣帝紀を読んでみよう:その6

その5(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/06/28/000100)の続き。





五年、天子南巡、觀兵呉疆。帝留鎮許昌、改封向郷侯、轉撫軍・假節、領兵五千、加給事中・録尚書事。帝固辭。天子曰「吾於庶事、以夜繼晝、無須臾寧息。此非以為榮、乃分憂耳。」
六年、天子復大興舟師征呉、復命帝居守、内鎮百姓、外供軍資。臨行、詔曰「吾深以後事為念、故以委卿。曹參雖有戰功、而蕭何為重。使吾無西顧之憂、不亦可乎!」
天子自廣陵還洛陽、詔帝曰「吾東、撫軍當總西事。吾西、撫軍當總東事。」於是帝留鎮許昌
及天子疾篤、帝與曹真・陳羣等見於崇華殿之南堂、並受顧命輔政。詔太子曰「有間此三公者、慎勿疑之。」明帝即位、改封舞陽侯。
(『晋書』巻一、宣帝紀

魏文時代、終わる。



上記記事によると魏文は司馬懿をかの蕭何になぞらえて留守中の政務を任せた、という。どうやら同時に陳群が鎮軍大将軍に任命され、撫軍大将軍司馬懿は留守を守り、鎮軍大将軍陳群は魏文に随行して補佐しろ、と言われていたらしい(『三国志』文帝紀注引『魏略』)。



黃初三年、車駕至宛、以巿不豐樂、發怒收(楊)俊。尚書僕射司馬宣王・常侍王象・荀緯請俊、叩頭流血、帝不許。俊曰「吾知罪矣。」遂自殺。衆亣痛之。
(『三国志』巻二十三、楊俊伝)


なお、その間に司馬懿は彼を評価した人の一人、楊俊を失っている。司馬懿は魏文に対して頭を打ち付けて土下座して助命嘆願をしたという。司馬懿がここまでするのはここまでなかなか出てこなかったように思う。



七年春正月、將幸許昌許昌城南門無故自崩、帝心惡之、遂不入。壬子、行還洛陽宮。
三月、築九華臺。
夏五月丙辰、帝疾篤、召中軍大將軍曹真・鎮軍大將軍陳羣・征東大將軍曹休・撫軍大將軍司馬宣王、並受遺詔輔嗣主。遣後宮淑媛・昭儀已下歸其家。
丁巳、帝崩于嘉福殿、時年四十。
六月戊寅、葬首陽陵。自殯及葬、皆以終制從事。
(『三国志』巻二、文帝紀

三国志』によれば、魏文は後継者を曹真・陳群・曹休司馬懿に託したのだという。魏文から見れば、自分と比較的年齢が近いであろう親族と、割と付き合いの長かった腹心の大臣、という組み合わせか。