『晋書』宣帝紀を読んでみよう:その2

その1(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/06/24/000100)の続き。





帝即防之第二子也。少有奇節、聰朗多大略、博學洽聞、伏膺儒教。漢末大亂、常慨然有憂天下心。
南陽太守同郡楊俊名知人、見帝、未弱冠、以為非常之器。
尚書清河崔琰與帝兄朗善、亦謂朗曰「君弟聰亮明允、剛斷英特、非子所及也。」
漢建安六年、郡舉上計掾。魏武帝為司空、聞而辟之。帝知漢運方微、不欲屈節曹氏、辭以風痹、不能起居。魏武使人夜往密刺之、帝堅臥不動。及魏武為丞相、又辟為文學掾、敕行者曰「若復盤桓、便收之。」帝懼而就職。於是使與太子游處、遷黃門侍郎、轉議郎・丞相東曹屬、尋轉主簿。
(『晋書』巻一、宣帝紀

司馬懿爆誕



司馬防の長男は司馬朗。その次が司馬懿


安平獻王孚字叔達、宣帝次弟也。初、孚長兄朗字伯達、宣帝字仲達、孚弟馗字季達、恂字顯達、進字惠達、通字雅達、敏字幼達、倶知名、故時號為「八達」焉。
(『晋書』巻三十七、安平献王孚伝)


この兄弟が「八達」と呼ばれていた事はまあ有名だろう。




司馬懿は楊俊と崔琰に評価された。


崔琰はその後魏武にアレされる運命で、楊俊はその後魏文にアレされる運命。あっ・・・。




司馬懿は建安6年頃に出仕したという。その頃の河内太守は魏种だろうか?




魏武さんは出仕を拒む司馬懿に暗殺者を差し向けたが、司馬懿は刺されるという段になっても微動だにしなかったとか・・・。どうして生きていたのか。

その後、「まだぐずぐずしているなら捕まえてこい」との魏武の命令にビビッて出仕したそうな。キャラがブレてない?



出仕後は太子すなわち魏文さんの下に付けられる一方、魏武の丞相府の役人となった。次の時代を担う存在と思われた、と解釈する事もできるだろうか。