監視意味なし

今以冀州河東・河内・魏郡・趙國・中山・常山・鉅鹿・安平・甘陵・平原凡十郡、封君為魏公。
(『三国志』巻一、武帝紀、建安十八年)


曹操が魏公になった時、その領有する郡は10とされた。


獻帝起居注曰「建安十八年三月庚寅、省州并郡、復禹貢之九州。
冀州魏郡安平鉅鹿・河間・清河・博陵・常山趙國勃海甘陵平原・太原・上黨・西河・定襄・鴈門・雲中・五原・朔方・河東河内・涿郡・漁陽・廣陽・右北平・上谷・代郡・遼東・遼東屬國・遼西・玄菟・樂浪、凡三十二郡。・・・(後略)・・・
(『続漢書』志第二十八、百官志五注引『献帝起居注』)

その10郡はいずれも当時の冀州(九州制による巨大冀州)に含まれている*1




魏公の国は完全に冀州牧に包括されているが、どちらも同一人物がその座にある。




つまり、郡や国の長を監察・監督するという州牧本来の役割は、魏公国においては事実上機能しなかったであろう、というわけだ。なにしろ同一人物がトップなのだから。




なお劉備も領益州牧のまま漢中王になっているはずなので、この点では同様である。

*1:実は引用する冀州の領域には中山が入っていないが、中山は元々冀州領内なので、この時も冀州領内だろう。