衛宏曰、「秦以前以金・玉・銀為方寸璽。秦以來天子獨稱璽、又以玉、羣下莫得用。其玉出藍田山、題是李斯書、其文曰『受命于天、既壽永昌』、號曰傳國璽。漢高祖定三秦、子嬰獻之、高祖即位乃佩之。王莽篡位、就元后求璽、后乃出以投地、上螭一角缺。及莽敗時、仍帶璽紱、杜呉殺莽、不知取璽、公賓就斬莽首、並取璽。更始將李松送上更始。赤眉至高陵、更始奉璽上赤眉。建武三年、盆子奉以上光武。孫堅從桂陽入雒討董卓、軍於城南、見井中有五色光、軍人莫敢汲、堅乃浚得璽。袁術有僭盜意、乃拘堅妻求之。術得璽、舉以向肘。魏武謂之曰『我在、不聽汝乃至此。』」時(徐)璆得而獻之。
(『後漢書』列伝第三十八、徐璆伝)
『後漢書』徐璆伝の注によれば、いわゆる「伝国璽」を孫堅は我がものとし、袁術がそれを奪った時、袁術が伝国璽を肘に向けた、という。曹操はそれに対して「私がいる、お前がそれをするのを許さないぞ」という事を言ったのだそうだ。
袁紹與韓馥謀立幽州牧劉虞為帝、太祖拒之。紹又嘗得一玉印、於太祖坐中舉向其肘、太祖由是笑而惡焉。
(『三国志』巻一、武帝紀)
上記の肘の話は、『三国志』武帝紀で袁紹と曹操の間で起こったという話に似ている。どこをどう伝わったのか知らないが、どちらかは(あるいはどちらも)伝言ゲームで変質した話なのだろう。
衛宏の方の話*1では肘に向けたというのが「玉印」から「伝国璽」になっていて、『三国志』ではイマイチ意味合いの分かりにくい感じのする話がかなりストレートな内容になっている。
どちらが妥当なのか分からないが、確かに「玉印」というのは始皇帝以降では天子独占なので、袁紹と曹操が「玉印」を手にするという機会は、土中から出土した過去の遺物か、さもなくば天子独占のはずのものを勝手に作成したか、どちらかという事になる。
袁紹と曹操の話は、天子の印璽を勝手に作ったか、あるいは天子の印璽を連想せずにはいられない古代の玉印をわが物にするような素振りを見せたという事になるわけで、天下泰平の時代であれば笑っていた者も一緒に首が飛ぶ案件なのだろう。