献帝チェンジ

獻帝起居注曰、公上言「大將軍鄴侯袁紹前與冀州牧韓馥立故大司馬劉虞、刻作金璽、遣故任長畢瑜詣虞、為説命録之數。又紹與臣書云『可都鄄城、當有所立。』擅鑄金銀印、孝廉計吏皆往詣紹。
(『三国志』巻一、武帝紀注引『献帝起居注』)

袁紹曹操に対し「鄄城に都を置くべきである。立てるところがある」と言った。




「立てる所」というのは文脈的に考えるとこれは「即位」のことではないか。




とはいえ、もちろんこの段階では袁紹自身の即位のことではないだろう(この文章は袁紹が帝位を窺っていたことの告発だが)。



おそらく、献帝をまず鄄城に置いたうえで、皇帝を別の皇族に挿げ替えるということを言っているではないかと思う。





袁紹献帝霊帝の実子ではないという風聞を流していたという証言もあるので、袁紹は当初の政治的なスタンスとして基本的に献帝を認めていなかったと思われるが、途中から献帝からの官位を受け取るなど宗旨替えしている。



それでも、できるだけ当初の見解に近づけるためか、より自分寄りの皇帝を作りたかったのか、献帝を早めにチェンジしたがっていたということなのかもしれない。