疎開のワケ

初、袁忠為沛相、嘗欲以法治太祖、沛國桓邵亦輕之、及在兗州、陳留邊讓言議頗侵太祖、太祖殺讓、族其 家、忠・邵俱避難交州、太祖遣使就太守士燮盡族之。桓邵得出首、拜謝於庭中、太祖謂曰「跪可解死邪!」遂殺之。
(『三国志』巻一、武帝紀注引『傅子』)


沛相の袁忠はかつて曹操を法によって処罰しようとしたので、曹操に恨まれたのだという。




董卓被誅、(李)傕・(郭)艴作亂、(朱)儁時猶在中牟。陶謙以儁名臣、數有戰功、可委以大事、乃與諸豪桀共推儁為太師、因移檄牧伯、同討李傕等、奉迎天子。乃奏記於儁曰「徐州刺史陶謙・前楊州刺史周乾・琅邪相陰徳・東海相劉馗・彭城相汲廉・北海相孔融・沛相袁忠・太山太守應劭・汝南太守徐璆・前九江太守服虔・博士鄭玄等、敢言之行車騎將軍河南尹莫府。・・・(後略)・・・
(『後漢書』列伝第六十一、朱儁伝)


その袁忠はどうやら董卓死亡の頃に沛相だったらしい。



もしかしたら、董卓が権力を握った時に沛相になったか、あるいはそれ以前から沛相だったのかもしれない。




なんにしろ、曹操が沛相袁忠によって法に触れて取り調べられそうになったとしたら、やはり反董卓の挙兵の時のことというのが一番ありそうなことだろう。





考えてみたら当時の体制に弓を引いているのだから当然なのだが、曹操は反董卓の挙兵によって地元の官憲からお尋ね者となり、おそらくは地元の関係者も捕まったり連座したりといった憂き目に遭ったことなのだろう。







あれ?


曹操の父曹嵩が徐州琅琊へ「疎開」したのって、反董卓董卓サイドによる戦乱のためというよりは、「反乱者曹操のアオリで逮捕・連座すること」から逃れるためだったりしないか・・・?