二人の帰徳侯

歸徳靖侯先賢撣。
匈奴單于從兄日逐王率衆降、侯。二千二百五十戸。
・・・(中略)・・・
建始二年、侯諷嗣、五十六年薨。
建武二年、侯襄嗣。
汝南。
侯霸嗣、永平十四年、有罪免。
(『漢書』巻十七、景武昭宣元成功臣表、歸徳靖侯先賢撣)

更始乃封(岑)彭為歸徳侯 、令屬伯升。
・・・(中略)・・・
更始大將軍呂植將兵屯淇園、彭説降之、於是拝彭為刺姦大將軍、使督察衆營、授以常所持節、從平河北。光武即位、拝彭廷尉、歸徳侯如故、行大將軍事。
(『後漢書』列伝第七、岑彭伝)

先日の話からすると、前漢以来の帰徳侯劉颯(匈奴王の子孫)と、後漢の功臣岑彭は、同じ時期に同じ更始・光武政権に所属していながら、同時に「帰徳侯」であったようだ。



同じ地名というのは無くもない事だし、混乱期でもあったので、既に由緒正しい帰徳侯がいるということを知らずに岑彭に与えてしまったという事だろうか。


それとも、何かもっと別の理由があるのだろうか。