匈奴の劉氏

更始至長安、大臣薦(陳)遵為大司馬護軍、與歸徳侯劉颯倶使匈奴
(『漢書』巻九十二、游俠伝、陳遵)


王莽が滅んで更始帝政権になった時、陳遵と「帰徳侯劉颯」なる人物が匈奴への使者となった。


歸徳靖侯先賢撣
匈奴單于從兄日逐王率衆降、侯。二千二百五十戸。
・・・(中略)・・・
建始二年、侯諷嗣、五十六年薨。
建武二年、侯襄嗣。
(『漢書』巻十七、景武昭宣元成功臣表、歸徳靖侯先賢撣)

この「帰徳侯」、もしかして漢に降伏した匈奴王の子孫か?



劉「颯」と「諷」というのも字形が相似しているように思える。




という事は、この匈奴人だった帰徳侯は遅くとも更始帝政権の時までには劉氏を名乗っていた事になる。



皇帝から劉氏を賜ったのだろうか?