『晋書』武帝紀を読んでみよう:その44

その43(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/11/16/000100)の続き。





八年春正月戊申朔、日有蝕之。
太廟殿陷。
三月乙丑、臨商觀震。
夏四月、齊國・天水隕霜、傷麥。
六月、魯國大風、拔樹木、壞百姓廬舍。
郡國八大水。
秋七月、前殿地陷、深數丈、中有破船。
八月、東夷二國內附。
九月、改營太廟。
冬十月、南康平固縣吏李豐反、聚衆攻郡縣、自號將軍。
十一月、海安令蕭輔聚衆反。
十二月、呉興人蔣迪聚黨反、圍陽羨縣、州郡捕討、皆伏誅。
南夷扶南・西域康居國各遣使來獻。
是歳、郡國五地震
(『晋書』巻三、武帝紀)


太康8年。


八年七月、大雨、殿前地陷、方五尺、深數丈、中有破船。
(『晋書』巻二十九、五行志下)

前殿の地面が崩落した原因は、大雨であるとの事。「中有破船」というのは崩落した穴の中に難破船があったという事か?



平固県のある南康郡は廬陵郡から分かれて出来た郡らしい。つまり揚州。


海安県は高興郡にあり、高興郡は広州にあった。


呉興郡は呉郡から分かれて出来た郡らしい。つまり揚州。



という事で、この年の反乱3件はいずれもかつての三国呉の領域で起こった事になる。詳細が分からないものの、まだ三国呉の領域は完全に従属したわけでもなかったのかもしれない。