三国時代の益州

劉璋劉備劉禅時代の益州の郡について。

後漢、明帝以新附置永昌郡。
安帝又以諸道置蜀・廣漢・犍為三郡屬國都尉。
及靈帝又以汶江・蠶陵・廣柔三縣立汶山郡。
獻帝初平元年、劉璋分巴郡立永寧郡。
建安六年、改永寧為巴東、以巴郡為巴西、又立涪陵郡。
二十一年、劉備分巴郡立固陵郡。
蜀章武元年又改固陵為巴東郡、巴西郡為巴郡、又分廣漢立梓潼郡、分犍為立江陽郡、以蜀郡屬國為漢嘉郡、以犍為屬國為朱提郡。
劉禪建興二年、改益州郡為建寧郡、廣漢屬國為陰平郡、分建寧・永昌立雲南郡、分建寧・牂柯立興古郡、分廣漢立東廣漢郡。
魏景元中、蜀平、省東廣漢郡。
(『晋書』巻十四、地理志上、益州


前漢末の段階で、益州には8つの郡があった。

  • 漢中
  • 広漢
  • 犍為
  • 牂柯
  • 越巂
  • 益州

明帝は新たに永昌郡を置いた。


安帝は蜀・広漢・犍為の三つの属国都尉部を置いた*1


霊帝の時にいくつかの県を分けて汶山郡を置いた。


献帝初平元年に劉璋は巴郡を分割して永寧郡を置いた*2


建安六年、劉璋は永寧郡を巴東郡、元の巴郡を巴西郡と改称するとともに涪陵郡を置いた。


同二十一年、劉備は固陵郡を置いた。


蜀の章武元年、固陵郡を巴東郡とし、巴西郡は巴郡に戻し、広漢郡を分割して梓潼郡、犍為郡を分割して江陽郡とし、また蜀郡属国都尉部を漢嘉郡、犍為属国都尉部を朱提郡に昇格させた。


劉禅の建興二年、益州郡を建寧郡と改称し、広漢属国都尉部を陰平郡に昇格、また建寧・永昌郡の一部を雲南郡とし、建寧・牂柯郡の一部を興古郡とし、広漢郡の一部を東広漢郡とした。


東広漢郡については蜀が平定されると廃止された。




以上の変遷をまとめると蜀末期の益州はこうなる。

  • 漢中
  • 広漢
  • 犍為
  • 牂柯
  • 越巂
  • 建寧
  • 永昌
  • 汶山
  • 永寧
  • 涪陵
  • 巴東
  • 梓潼
  • 江陽
  • 漢嘉
  • 朱提
  • 陰平
  • 雲南
  • 興古
  • 東広漢

二十一も郡があった。

割拠により郡の細分化が必要になったためだろうか、前漢末の三倍近くになっている。



しかも東広漢郡なんて初めて聞いた(いわゆる正史では『晋書』地理志でしか確認できないようだ。)。


*1:郡とは別の管轄を持っている。

*2:初平元年はまだ劉璋益州牧となっていないので、興平元年が正しいのではないか、という説もある。