『史記』陳渉世家を読んでみよう:その5

その4(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180723/1532271741)の続き。





當此時、諸郡縣苦秦吏者、皆刑其長吏、殺之以應陳渉。
乃以呉叔為假王、監諸將以西撃滎陽。
令陳人武臣・張耳・陳餘徇趙地、令汝陰人訒宗徇九江郡。
當此時、楚兵數千人為聚者、不可勝數。
葛嬰至東城、立襄彊為楚王。嬰後聞陳王已立、因殺襄彊、還報。至陳、陳王誅殺葛嬰。
陳王令魏人周市北徇魏地。
呉廣圍滎陽。李由為三川守、守滎陽、呉叔弗能下。陳王徴國之豪傑與計、以上蔡人房君蔡賜為上柱國。
(『史記』巻四十八、陳渉世家)


陳勝の挙兵に各地で呼応し、秦の長官を殺して陳勝に同調する者が多かったという。



あの沛でもそういう動きがあったと『史記』高祖本紀が記している。





また呉広は「仮王」となって要地滎陽を攻撃した。もし滎陽が落ちれば、秦の支配に一気に大きな亀裂が生じる事になるだろう。




一方、先んじて東の方へ派遣されていた葛嬰だが、陳勝が楚王になるとは思ってなかったらしく、別の者を楚王に立て、陳勝が王になったと聞くとその王を始末した。その報告を受け、陳勝は葛嬰を処刑してしまったという。


立てられた王も、立てた葛嬰も、なんだか可哀相である。


なお、この葛嬰の子孫があのロバ顔で有名な諸葛氏だという説が残っている。




また趙には武臣・張耳・陳余を、魏には周市を送り込んだ。


張耳・陳余は魏があった頃からの著名人で、秦の追及を逃れ隠れていたが陳勝に仕えたのだった。陳余はかつて趙にいた事があったため、趙行きを希望したのだという。





なお、呉広を阻んだ三川郡守の李由というのはあの李斯の息子である。