一つの可能性

王祥字休徴、琅邪臨沂人、漢諫議大夫吉之後也。
(『晋書』巻三十三、王祥伝)

晋の王祥は徐州琅邪郡の人で、「二十四孝」のひとり、人呼んで魚取りの王祥である*1



漢末遭亂、扶母攜弟覽避地廬江、隱居三十餘年、不應州郡之命。母終、居喪毀瘁、杖而後起。
徐州刺史呂虔檄為別駕、祥年垂耳順、固辭不受。覽勸之、為具車牛、祥乃應召、虔委以州事。于時寇盜充斥、祥率勵兵士、頻討破之。州界清靜、政化大行。時人歌之曰「海沂之康、實褚王祥。邦國不空、別駕之功。」
(『晋書』巻三十三、王祥伝)

彼は三十年以上も出仕を断り続け、母(継母である)が死んだ後、弟が強く勧めて初めて徐州刺史呂虔に出仕したという。



(呂)虔在泰山十數年、甚有威惠。文帝即王位、加裨將軍、封益壽亭侯、遷徐州刺史、加威虜將軍。請琅邪王祥為別駕、民事一以委之、世多其能任賢。
(『三国志』巻十八、呂虔伝)

呂虔が徐州刺史になったのは魏の文帝曹丕が魏王になってから、言い換えると曹操が死んでからという事らしい。



となると、それまで出仕を断り続けていた王祥が出仕するようになった理由に、扶養すべき母が世を去った事だけではなく、事実上の支配者が変わったから、というのもあった可能性もある(むろん、そうでない可能性も十分ある)。




何しろ、王祥の出身である徐州というのは、曹操と深い因縁がある土地なのだから。

*1:今考えた。