曹操逃亡後の沛国

會靈帝崩、太子即位、太后臨朝。大將軍何進袁紹謀誅宦官、太后不聽。進乃召董卓、欲以脅太后、卓未至而進見殺。卓到、廢帝為弘農王而立獻帝、京都大亂。卓表太祖為驍騎校尉、欲與計事。太祖乃變易姓名、間行東歸。出關、過中牟、為亭長所疑、執詣縣、邑中或竊識之、為請得解。卓遂殺太后及弘農王。太祖至陳留、散家財、合義兵、將以誅卓。冬十二月、始起兵於己吾、是歳中平六年也。
(『三国志』巻一、武帝紀)

曹操董卓の元から逃げ出したのは中平六年(永漢元年)。



皇帝廃立後で皇太后何氏が董卓に殺される前のことであるとされているので、中平元年(永漢元年)九月のことということになる。



そして曹操は同年十二月についに挙兵するわけだが、挙兵以前の逃亡の段階で董卓が放置していたとは思えない。



上記記事にもあるように本人が一度は捕縛の憂き目に遭っているし、同時に曹操の潜伏先として一番怪しまれるに決まっている郷里である予州沛国にも、手配書は回された事だろう。



(中平六年九月)甲午、豫州牧黄琬為司徒
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀)

この時の沛国を統括する予州牧は黄琬であった。



彼は曹操の逃亡とほとんど同時期に司徒に昇進しているため、曹操捕縛命令などを彼が実際に受け取ったかどうかは怪しいが、少なくとも董卓が命令を出した先にはこの予州牧黄琬が加わっていたに違いない。



魏書曰、邵以忠篤有才智、為太祖所親信。初平中、太祖興義兵、邵募徒衆、從太祖周旋。豫州刺史黄琬欲害太祖、太祖避之而邵獨遇害。
(『三国志』巻九、曹真伝注引『魏書』)

曹真の父、邵について「予州刺史黄琬」が曹操を害しようとした時に死んだと伝わるのは、この「曹操逃亡事件」で予州の役人たちが曹操を捕縛しようとした時のことなのではないだろうか。



無論、上記『魏書』では「初平中」(中平ではなく)「豫州刺史黄琬」(牧ではなく)といった相違点もあるので断言はできないが。



また、憶測ついでに言うならば、『三国志』曹真伝注引『魏略』が伝える曹真の父秦伯南が曹操を名乗って死んだという件も、沛に戻ってくるかもしれない曹操の逮捕に予州刺史や沛相が血眼になる中で起こった事件を伝えたものなのかもしれない。






初、袁忠為沛相、嘗欲以法治太祖、沛國桓邵亦輕之、及在兗州、陳留邊讓言議頗侵太祖、太祖殺讓、族其 家、忠・邵俱避難交州、太祖遣使就太守士燮盡族之。桓邵得出首、拜謝於庭中、太祖謂曰「跪可解死邪!」遂殺之。
(『三国志』巻一、武帝紀注引『傅子』)

また先日記事にした袁忠の件だが、曹操が恨みに思うくらい袁忠が沛国で何かしたことは明らかである。



(袁)忠字正甫、與同郡范滂為友、倶證黨事得釋、語在滂傳。初平中、為沛相、乗葦車到官、以清亮稱。及天下大亂、忠弃官客會稽上虞。
(『後漢書』列伝第三十五、袁安伝)

董卓被誅、(李)傕・(郭)艴作亂、(朱)儁時猶在中牟。陶謙以儁名臣、數有戰功、可委以大事、乃與諸豪桀共推儁為太師、因移檄牧伯、同討李傕等、奉迎天子。乃奏記於儁曰「徐州刺史陶謙・前楊州刺史周乾・琅邪相陰徳・東海相劉馗・彭城相汲廉・北海相孔融沛相袁忠・太山太守應劭・汝南太守徐璆・前九江太守服虔・博士鄭玄等、敢言之行車騎將軍河南尹莫府。・・・(後略)・・・
(『後漢書』列伝第六十一、朱儁伝)

その袁忠は初平年間に沛相となり、董卓が殺された初平三年以降も沛相であったようである。



その間、曹操はほぼ一貫して献帝を皇帝として戴く政権に刃向う立場であったから、曹操の郷里を治める沛相が沛に残っていた曹操の一族郎党を拘束・尋問していったことは確実だろう。






曹操の近親や郷里の知己は、このあたりの事情が絡んでかなり失われたのかもしれない。*1

*1:http://d.hatena.ne.jp/mujin/20080703/p1をかなり参考にしている。