『三国志』武帝紀を読んでみよう:その10

その9(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/12/10/000100)の続き。





興平元年春、太祖自徐州還。
初、太祖父嵩、去官後還譙、董卓之亂、避難瑯邪、為陶謙所害。故太祖志在復讎東伐。
夏、使荀彧・程昱守鄄城、復征陶謙、拔五城、遂略地至東海。還過郯、謙將曹豹與劉備屯郯東、要太祖。太祖擊破之、遂攻拔襄賁、所過多所殘戮。
(『三国志』巻一、武帝紀)

魏武、また徐州を攻める。



何故かここで魏武の父曹嵩の死が語られる。最初の徐州攻めと二回目の徐州攻めの間に挿入されているため、素直に読むと初回の徐州攻めの後に曹嵩が死んだようにも思えるが、一方で、最初の時から復讐のために攻めようとしていたようにも思えない事もない。


前者だとすると、徐州を攻めた事が曹嵩の死を招いたようにも思える。

興平元年、前太尉曹嵩及子徳從琅邪入太山、(応)劭遣兵迎之、未到、而徐州牧陶謙素怨嵩子操數撃之、乃使輕騎追嵩・徳、並殺之於郡界。劭畏操誅、弃郡奔冀州袁紹
(『後漢書』列伝第三十八、応劭伝)


実際、『後漢書』応劭伝では魏武に攻められた事を恨んだ陶謙が曹嵩を殺したという事になっている。曹嵩が琅邪方面にいたのであれば、徐州を攻めればそうなる可能性があった事は明らかであろう。


(曹)嵩靈帝時貨賂中官及輸西園錢一億萬、故位至太尉。
及子操起兵、不肯相隨、乃與少子疾避亂琅邪、為徐州刺史陶謙所殺。
(『後漢書』列伝第六十八、宦者列伝、曹騰)


曹嵩は息子の挙兵の際に同行せずに琅邪へ避難したとも言われており、魏武は父がいる、という事は人質状態になっているとわかっていて徐州を攻めたという事になるだろうか。



想像でしか言えない事ではあるが。




何にせよ、この時の徐州攻めでは「所過多所殘戮」などと言われており、理由はともかく相当に殺戮略奪をしたんだろうと思われる。



あたかも復讐心でこうなったように思える書き方ではあるが、実行犯や責任者である陶謙に当たるならまだしも、流石に責任があるとは言い難い徐州の人々を殺していったのは、復讐にしてはかなりやり過ぎであろう。



やはり前回の話と照らし合わせると、青州黄巾を兵として使い、道中で降伏前と同じような「補給」を繰り返したというのが実情だったのではあるまいか。



だったら殺戮や略奪が正当化されるというものでもないけれど。