『漢書』武帝紀を読んでみよう:その8

その7(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20171201/1512054119)の続き。




三年春、河水徙、從頓丘東南流入勃海
夏五月、封高祖功臣五人後為列侯。
河水決濮陽、氾郡十六。發卒十萬救決河。起龍淵宮。
四年冬、魏其侯竇嬰有罪、棄市。
春三月乙卯、丞相蚡薨。
夏四月、隕霜殺草。
五月、地震。赦天下。
五年春正月、河間王徳薨。
夏、發巴蜀治南夷道、又發卒萬人治雁門阻險。
秋七月、大風拔木。
乙巳、皇后陳氏廢。捕為巫蠱者、皆梟首。
八月、螟。
徴吏民有明當時之務習先聖之術者、縣次續食、令與計偕。
(『漢書』巻六、武帝紀)

元光3年から。




黄河の流れが変わった。黄河の流れがしばしば変わるというのは割と知られている話である。




一度は丞相となった竇嬰は現丞相田蚡との争いに敗れて失脚して処刑された。だが次の年には丞相田蚡も祟りに遭ったかのごとく怪死した。



武帝の祖母竇太后の親族である竇嬰と、武帝の母の親族である田蚡。即位直後はむしろ力を合わせて武帝親政を補佐しようとしていた二人だが、竇太后がいなくなるとそもそも系統の違う外戚という敵対的な関係に戻ったというところなのかもしれない。



初、武帝得立為太子、長主有力、取主女為妃。
及帝即位、立為皇后、擅寵驕貴、十餘年而無子、聞衛子夫得幸、幾死者數焉。上愈怒。后又挾婦人媚道、頗覺。
元光五年、上遂窮治之、女子楚服等坐為皇后巫蠱祠祭祝詛、大逆無道、相連及誅者三百餘人。楚服梟首於市。使有司賜皇后策曰「皇后失序、惑於巫祝、不可以承天命。其上璽綬、罷退居長門宮。」
(『漢書』巻九十七上、外戚伝上、孝武陳皇后)

武帝の皇后陳氏が廃位された。



彼女は皇太子時代からの正妻で、武帝が皇太子になる上での後ろ盾であった長公主(武帝の伯母)の娘であった。



しかし後継ぎには恵まれない一方、武帝がこの頃には既に見出していた側室「衛子夫」は既に娘を産んでいたため、子宝祈願と衛子夫への呪詛を行っていたのかもしれない。まあ、皇后を替えたい武帝サイドが仕組んだ可能性もあるだろうが。