『漢書』景帝紀を読んでみよう:その2

その1(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20171031/1509376388)の続き。




二年冬十二月、有星孛于西南。
令天下男子年二十始傅。
春三月、立皇子徳為河間王、閼為臨江王、餘為淮陽王、非為汝南王、彭祖為廣川王、發為長沙王。
夏四月壬午、太皇太后崩。
六月、丞相(申屠)嘉薨。
封故相國蕭何孫係為列侯。
秋、與匈奴和親。
(『漢書』巻五、景帝紀

景帝前2年。




「令天下男子年二十始傅」だけではなんだかよくわからないが、これは実は「これまでは23歳で徭役・兵役の対象としていたが、20歳からに引き下げた」ということなのだという。



となると徭役・兵役を拡大したわけである。これもおそらくは近く来るであろう戦に備えるものであるのだろう。



(申屠)嘉為丞相五歳、孝文帝崩、孝景帝即位。
二年、鼂錯為内史、貴幸用事、諸法令多所請變更、議以謫罰侵削諸侯。而丞相嘉自絀所言不用、疾錯。錯為内史、門東出、不便、更穿一門南出。南出者、太上皇廟堧垣。嘉聞之、欲因此以法錯擅穿廟垣為門、奏請誅錯。錯客有語錯、錯恐、夜入宮上謁、自歸景帝。至朝、丞相奏請誅内史錯。景帝曰「錯所穿非真廟垣、乃外堧垣、故他官居其中、且又我使為之、錯無罪。」罷朝、嘉謂長史曰「吾悔不先斬錯、乃先請之、為錯所賣。」至舍、因歐血而死。
(『史記』張丞相列伝)

ここで死んだ丞相とは高祖時代からの旧臣申屠嘉。



彼は景帝の腹心鼂錯を始末する機会を伺っていたが果たせず、失意のうちに死んだという。自殺したということかもしれない。



二年春、封故相國蕭何孫係為武陵侯。
男子二十而得傅。
四月壬午、孝文太后崩。
廣川・長沙王皆之國。
丞相申屠嘉卒。
八月、以御史大夫開封陶青為丞相。
彗星出東北。
秋、衡山雨雹、大者五寸、深者二尺。
熒惑逆行、守北辰。月出北辰輭。歳星逆行天廷中。
置南陵及内史・祋祤為縣。
(『史記』巻十一、孝景本紀)

史記』ではこの年はなんだかやる気を出していて、天文がなんだか大変な事になっている感を演出している。



ここでは多くは語らないが、大きな出来事が迫っているのである。