『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その42

その41の続き。


十二月、王邑等破翟義於圉。
司威陳崇使監軍上書言「陛下奉天洪範、心合寶龜、膺受元命、豫知成敗、咸應兆占、是謂配天。配天之主、慮則移氣、言則動物、施則成化。臣崇伏讀詔書下日、竊計其時、聖思始發、而反虜仍破。詔文始書、反虜大敗。制書始下、反虜畢斬、衆將未及齊其鋒芒。臣崇未及盡其愚慮、而事已決矣。」莽大説。
三年春、地震大赦天下。
王邑等還京師、西與王級等合撃(趙)明・(霍)鴻、皆破滅、語在翟義傳。
莽大置酒未央宮白虎殿、勞賜將帥。詔陳崇治校軍功、第其高下。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

十二月、王邑らは翟義を圉で破った。



司威陳崇は使者として監軍になっており、そこで上奏した。「陛下は天の法則を奉じ、心は神亀と一体となり、天命を受け、みな占いの結果と対応しており、これは天に合致していると言います。天に合致している君主は考えを巡らせれば陰陽の気が移り変わり、何かを言えば万物が動き、何かを施せば教化が完成するのです。私めが詔書の下された日を見てその時期を計算すると、陛下のお考えが発露すると反乱者たちは何度も破られ、詔書が書かれ始めると反乱者たちは大敗しております。制書が発布されると、反乱者たちはみな斬首されており、諸将はまだ切っ先を同じにするのにも及びませんでした。私めが愚かしい考えを尽くすまでもなく、全ては決着していたのです」王莽はそれを見て大いに喜んだ。



居摂三年春、地震が起こった。天下に大赦令を出した。



王邑らが都に帰り、西方へ向かい王級たちと共に趙明・霍鴻らを討ち破った。そのあたりは『漢書』翟義伝を参照せよ。



王莽は未央宮の白虎殿で大宴会を開き、将帥たちの労をねぎらった。陳崇に軍功を点検してその上下を決めるよう命じた。


於是吏士精鋭遂攻圍義於圉城、破之、(翟)義與劉信棄軍庸亡。至固始界中捕得義、尸磔陳都市。卒不得信。
(『漢書』巻八十四、翟義伝)


翟義は圉城で敗れて逃げたが最終的には屍は陳県で磔にされた。しかし天子となっていた劉信は捕えることができなかったらしい。


この時に反乱討伐に加わっていた王邑はその事を責められ、そのためにその後の反乱者討伐で生け捕りにこだわって失敗したという話がある。例の超有名な戦である。



また『漢書』翟義伝によると趙明らは右輔都尉を殺している。これは三輔における郡都尉にあたる職なので、右扶風の防衛軍を撃破したようなものだ。王莽らがあわてるのも当然であろう。





なお、後漢の城陽恭王劉祉は、父と安衆侯劉崇が友人であり、更に自分の妻が翟義の姪であったりする


王莽にいわば土下座することで巻き添えにならずに済んでいるが、内心忸怩たる思いがあっただろう。



彼のような人間にとっては、王莽時代を通して戦は終わってなかったのかもしれない。