『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その33

その32の続き。


泉陵侯劉慶上書言「周成王幼少稱孺子、周公居攝。今帝富於春秋、宜令安漢公行天子事、如周公。」羣臣皆曰「宜如慶言。」
冬、熒惑入月中。
平帝疾、莽作策、請命於泰畤、戴璧秉圭、願以身代。藏策金縢、置于前殿、敕諸公勿敢言。
十二月平帝崩、大赦天下。莽徴明禮者宗伯鳳等與定天下吏六百石以上皆服喪三年、奏尊孝成廟曰統宗、孝平廟曰元宗。
元帝世絶、而宣帝曾孫有見王五人、列侯廣戚侯顯等四十八人、莽惡其長大、曰「兄弟不得相為後。」乃選玄孫中最幼廣戚侯子嬰、年二歳、託以為卜相最吉。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

泉陵侯劉慶が「周の成王は幼少の時に「孺子」と呼ばれ、周公旦が摂政となりました。今、皇帝はまだ若いので、周公旦のように安漢公が天子の仕事を代行するべきです」と上奏し、群臣もみな「劉慶の言うとおりにするべきです」と言った。



冬、熒惑が月の中に入った。



平帝が病気になったので、王莽は策書を作って甘泉にある泰畤で璧や圭を捧げて皇帝の命を請い、自らが身代わりになることを願った。その策書を箱に入れて金で封印して前殿に置き、公たちにはそのことを他言しないよう命じた*1



十二月に平帝は崩御した。天下に大赦を発布した。王莽は礼に明るい宗伯鳳らを呼び出して協議し、天下の六百石以上の官吏に三年の喪に服させ、成帝廟を「統宗」、平帝廟を「元宗」と定めた。



この時、元帝の血統は途絶えており、宣帝の曾孫で現に王になっている者が五人、列侯は広戚侯劉顕ら四十八人がいたが、王莽は彼らが壮年であることを嫌い、「同じ世代では後継者になることはできない」と言い、宣帝の玄孫の中でも最も幼い二歳の広戚侯の子劉嬰を選び、占いで最も吉であったと言い訳した。



あっさり世を去る平帝。

後徴定陶王為太子、封中山王舅參為宜郷侯。參、馮太后少弟也。是歳、孝王薨、有一男、嗣為王、時未滿歳、有眚病、太后自養視、數禱祠解。
(『漢書』巻九十七下、孝元馮昭儀伝)


あとでまた触れるけれど平帝は王莽が毒殺したと言われている。しかし平帝は幼い頃に何か原因不明の大病となって祖母が祈祷に頼ることとなったというので、もともと病弱だったという可能性も捨てきれない。

また、平帝がまだ生きていた段階で、平帝の代行として王莽が天子の仕事をするべきという話が進んでおり、平帝が生きていたとしても王莽の権力に大きな変化が訪れる段階ではないようなので、むしろ不安定化を生む可能性のある皇帝交代を王莽が仕掛けたというのはあまり合理的ではないようにも思う。





あと、「同じ世代では後継者になることはできない」と自らの哀帝から平帝への継承を否定する発言をしたかのように見えるが、これはこの時代の公式見解では哀帝の即位を実質的に否定し、成帝から平帝へ継承すべきだった、と考えているということを意味するのだろう。

「王莽ダブルスタンダードすぎワロタ」とか言わないでおいてあげよう。

*1:「金縢」は『書経』の一篇であり、周の武王が病気になった際に周公旦が自分が身代わりになると天に対して願った策書を入れた箱のことである。つまり王莽はそれを完全再現しようとしたのである。ちなみにその時は周の武王は一度良くなったが結局死んだ。