『漢書』王莽伝を読んでみよう:下その38

その37の続き。


六月、(王)邑與司徒(王)尋發雒陽、欲至宛、道出潁川、過昆陽。昆陽時已降漢、漢兵守之。嚴尤・陳茂與二公會、二公縱兵圍昆陽。
嚴尤曰「稱尊號者在宛下、宜亟進。彼破、諸城自定矣。」邑曰「百萬之師、所過當滅、今屠此城、喋血而進、前歌後舞、顧不快邪!」遂圍城數十重。城中請降、不許。嚴尤又曰「『歸師勿遏、圍城為之闕』、可如兵法、使得逸出、以怖宛下。」邑又不聽。
會世祖悉發郾・定陵兵數千人來救昆陽、尋・邑易之、自將萬餘人行陳、敕諸營皆按部毋得動、獨迎、與漢兵戰、不利。大軍不敢擅相救、漢兵乗勝殺尋。昆陽中兵出並戰、邑走、軍亂。大風蜚瓦、雨如注水、大衆崩壞號謼、虎豹股栗、士卒犇走、各還歸其郡。邑獨與所將長安勇敢數千人還雒陽。
關中聞之震恐、盜賊並起。
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)

六月、王邑は司徒王尋と洛陽を出発して宛へ向かおうとし、潁川へ出る道を行き、昆陽に通りかかった。昆陽は既に漢へ降伏しており、漢の兵士が守っていた。荘尤(厳尤)・陳茂は王邑・王尋の二公と合流し、二公は兵を出して昆陽を囲んだ。



荘尤は言った。「皇帝を名乗った者は宛の方にいるのだから、速やかに宛へ進軍すべきだ。そやつらを破れば、他の城も自然に平定される」
王邑は言った。「百万の軍は通るところ全て滅ぼすべきである。今この城を落とし、流れる血を踏み歩いて進み、前方は歌い後方は舞うようにするのは、なんと心地よいことではないか」
そこで昆陽の城を数十にも重ねて包囲した。城中の者は降伏を願い出たが許されなかった。



荘尤はまた言った。「「帰るところの軍は遮ってはならない。城を囲むときには完全包囲しないで敢えて一部開けておく」と言う。兵法の通りにして城中の者を脱出させ、宛方面の者にこの軍の恐怖を伝えるべきだ」
王邑はこれも聞き入れなかった。



この時、世祖は郾・定陵の兵数千を悉く徴発して昆陽を助けに来たが、王邑・王尋はこの軍を侮り、自ら一万余りの兵を率いて陣立てし、他の部隊には動かないよう命令を出し、単独で世祖の軍を迎えて交戦したが、劣勢となった。
大軍は動かないよう命令を受けていたので助けに出ず、漢(世祖)の兵は勝ちに乗じて王尋を討ち取った。昆陽城中の兵も打って出て戦い、王邑は敗走し、軍は混乱した。大風が瓦を飛ばし、雨が降り注ぎ、大軍は怒号と共に崩壊した。虎や豹は恐れおののき、兵士は一目散に逃げ、それぞれ自分の郡へ戻った。
王邑だけは自ら率いる長安の突撃兵数千人と共に洛陽へ戻った。



関中はそれを聞いて震撼して恐れ、群盗が各地で蜂起した。




いわゆる「昆陽の戦い」と言う奴だ。私のような浅学があれこれ言う必要は何もないだろう。



この戦いを世祖側が見た内容については、たとえばこのブログなどを参照。