死後裁きにあう

許楊字偉君、汝南平輿人也。少好術數。王莽輔政、召為郎、稍遷酒泉都尉。及莽簒位、楊乃變姓名為巫醫、逃匿它界。莽敗、方還郷里。
汝南舊有鴻郤陂、成帝時、丞相翟方進奏毀敗之。建武中、太守訒晨欲修復其功、聞楊曉水脈、召與議之。楊曰「昔成帝用方進之言、尋而自夢上天、天帝怒曰『何故敗我濯龍淵?』是後民失其利、多致飢困。時有謠歌曰『敗我陂者翟子威、飴我大豆、亨我芋魁。反乎覆、陂當復。』昔大禹決江疏河以利天下、明府今興立廢業、富國安民、童謠之言、將有徴於此。誠願以死效力。」晨大悦、因署楊為都水掾、使典其事。楊因高下形埶、起塘四百餘里、數年乃立。百姓得其便、累歳大稔。
(『後漢書』列伝第七十二上、方術列伝上、許楊)


後漢初期の人、汝南平輿の人許楊(許慎や許靖と同郷)は水脈に詳しく、前漢末期の丞相翟方進が撤去したために民が苦しみ、天も皇帝に警告を与えたのだという堤防を復興する事業に従事した。





初、汝南舊有鴻隙大陂、郡以為饒、成帝時、關東數水、陂溢為害。(翟)方進為相、與御史大夫孔光共遣掾行視、以為決去陂水、其地肥美、省隄防費而無水憂、遂奏罷之。及翟氏滅、郷里歸惡、言方進請陂下良田不得而奏罷陂云。王莽時常枯旱、郡中追怨方進、童謠曰「壞陂誰?翟子威。飯我豆食羹芋魁。反乎覆、陂當復。誰云者?両黄鵠。」
(『漢書』巻八十四、翟方進伝)

なお『漢書』翟方進伝ではこの堤防廃止について、翟方進の子供翟義が王莽に反乱して敗死したことから諸悪の根源扱いされるようになり、堤防の件も「翟方進が良田を求めて得られなかったから腹いせに廃止を上奏したのだ」とされ、王莽時代に水が枯渇したことで堤防を廃止した翟方進が恨まれるようになったのだ、と述べている。



こちらは割と翟方進に同情的な論調であると言えるだろう。




これは翟方進伝であるため同情的な論調になりやすかったというのが大きいんだろうが、『後漢書』許楊伝の内容はまさしく「郡中追怨方進」といったことを示すものだと言うこともできそうだ。




許楊伝は汝南許氏その他汝南郡の人間によって作られた伝記類が原型なのだろうから、きっと『漢書』に記されたように王莽時代に翟方進を恨むようになった汝南人たちの感情や思考が色濃く反映されているのだろう。