新都令と新都相

(孔)休字子泉、哀帝初、守新都令。
後王莽秉權、休去官歸家。
及莽篡位、遣使齎玄纁・束帛、請為國師、遂歐血託病、杜門自絶。
(『後漢書』列伝第十五、卓茂伝)

始(王)莽就國、南陽太守以莽貴重、選門下掾宛孔休守新都相。
休謁見莽、莽盡禮自納、休亦聞其名、與相答。
後莽疾、休候之、莽縁恩意、進其玉具寶劍、欲以為好。休不肯受、莽因曰「誠見君面有瘢、美玉可以滅瘢、欲獻其瑑耳。」即解其瑑、休復辭讓。莽曰「君嫌其賈邪?」遂椎碎之、自裹以進休、休乃受。及莽徴去、欲見休、休稱疾不見。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)


前漢末の南陽郡の人、孔休(後漢初期の人朱暉の外祖父)。




この人について『後漢書』では「守新都令」、『漢書』王莽伝では「守新都相」になったと書かれている。



この「新都」というのはまず間違いなく王莽の領国として南陽郡新野県を分割して生まれたところなので*1、皇帝直轄領の代官という意味の「令」ではなく、列侯の領国の民政長官という意味の「相」が正しいのだろう。





まあ、故意に書き換えたということではないとは思うが、ある意味では前漢末最大級の有名人と言っても良い「新都侯王莽」との関係をスルーしてしまうとは、略伝とはいえ少々ネタ的に勿体ないな、と思ってしまう。

*1:漢書』地理志上によると益州広漢郡に「新都県」があるが、南陽郡に出仕している役人の孔休が広漢郡の県の長官になったとは思いにくい。