宴会費用

及祖母卒、服終、從尚書郎為河内温縣令、政化嚴明。中山諸王毎過温縣、必責求供給、温吏民患之。及(李)密至、中山王過縣、欲求芻茭薪蒸、密牋引高祖過沛、賓禮老幼、桑梓之供、一無煩擾、「伏惟明王孝思惟則、動識先戒、本國望風、式歌且舞、誅求之碎、所未聞命。」自後諸王過、不敢有煩。
(『三国志』巻四十五、楊戯伝注引『華陽国志』)

蜀漢末から晋代にかけての人、李密。



彼が晋の河内郡温県の長官だった時の事。



この河内郡温県というのは皇帝司馬氏の本籍であったので、司馬氏の諸王がしばしば立ち寄ったらしい。



その際、供応のための支出がバカにならないということに住民は苦しんでいた。



そこで県令李密はやってきた中山王に対して「高祖が沛に滞在したときには老人から幼児まで賓客としてもてなし、供用の費用を住民に押し付けるようなことはなかった」と高祖を引き合いに出して説得し、それ以来諸王は住民を煩わせることがなくなったのだという。






沛父老諸母故人日樂飲極歡、道舊故為笑樂。十餘日、上欲去、沛父兄固請。上曰「吾人眾多、父兄不能給。」乃去。沛中空縣皆之邑西獻。上留止、張飲三日。
(『漢書』巻一下、高帝紀下、高祖十二年十月)

李密が引き合いに出した高祖の件とは、このことであろうか。




漢の高祖劉邦は故郷の沛に滞在し、十数日もの間宴会を開いた。



そこで高祖は帰り支度を始め、沛の住民が止めると高祖は「吾等は大所帯だから住民の皆では費用を供給できないだろう」と答えた。



そうしたところ、沛中の人々が差し入れを献上にやってきたため、高祖は帰還を延期し、再度三日間の宴会を開いたという。





つまり、高祖は沛の住民がこれ以上宴会費用を出すことは難しいと考えて帰ろうとしたが、沛は住民こぞって自ら醵出することで宴会を延長した、ということである。







李密の理解するところでは、高祖は当初は自己負担で宴会を開いたが、十数日のところで蓄えが尽き、そこで帰ろうとしたところ沛の住民が自ら自己負担を申し出た、ということになるのだろうか。





その理解が正しいかどうかはともかく、目上の人間の方が部下などを酒席に誘う(参加させる、とも言う)際には、まず上司の側が極力オゴるのがたしなみである、と李密は言いたいのであろう。きっと*1





*1:ちょっと違う気もするがまあいい。