『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その58

その57(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/01/15/000100)の続き。





八年冬、上撃韓王信餘寇于東垣。建武侯靳歙有功、遷為車騎將軍。
上還過趙、趙相貫高伏兵柏人亭、欲為逆。上宿、心動、曰、柏人者、迫於人也。乃去之。
初上過趙、王甚卑恭、上箕踞罵詈甚辱之。貫高謂王曰、皇帝遇王無禮、請殺之。王嚙其指出血曰、先人亡國、頼皇帝得復、徳流乎子孫。君無出口。高等私相謂曰、吾王長者、終不背徳、何為汙王。事成歸之于王、不成獨身坐之。乃陰獨為謀而王不知。
十有一月、令士卒從軍死者送歸于縣、給衣衾、長吏視葬、祠以少牢。
十有二月、至自東垣。
春三月、行如洛陽。令人無得衣錦繡綺縠絺紵。
九月、至自洛陽。
(『漢紀』高祖皇帝紀巻第四)


ここから第四である。



劉邦、趙王の丞相貫高に暗殺されそうになるが、超自然的な危機回避能力で難を逃れた。



趙王の丞相と言う事は結構な高位であり、そんな人間が暗殺を目論むというのはとんでもない話である。


劉邦は趙王(娘婿)を侮辱したという。もっとも、劉邦は色々見ていく限りでは無礼、無神経、あるいは非常識っぽい言動が多いので、劉邦的には特別侮辱しようと思っていない平常運転だったのかもしれないが。



淮南厲王長者、高祖少子也、其母故趙王張敖美人。
高祖八年、從東垣過趙、趙王獻之美人。厲王母得幸焉、有身。趙王敖弗敢内宮、為築外宮而舍之。及貫高等謀反柏人事發覺、并逮治王、盡收捕王母兄弟美人、繫之河内。厲王母亦繫、告吏曰「得幸上、有身。」吏以聞上、上方怒趙王、未理厲王母。厲王母弟趙兼因辟陽侯言呂后呂后妒、弗肯白、辟陽侯不彊爭。及厲王母已生厲王、恚、即自殺。吏奉厲王詣上、上悔、令呂后母之、而葬厲王母真定。真定、厲王母之家在焉、父世縣也。
(『史記』巻一百一十八、淮南衡山列伝)


なお、この時に趙王は自分の側室を劉邦に献上しており、その女性が劉邦の子を産んでいる。その子があの『淮南子』で有名な淮南王劉安の父、淮南厲王劉長である。あるいは、この側室献上も貫高らの怒りを買ったのかもしれないし、そうでもないかもしれない。