臨邑侯

典略曰、(劉)備本臨邑侯枝屬也。
(『三国志』巻三十二、先主伝)

かの劉備の出自について、『三国志』本伝とは明らかに別の説が『典略』にあることは割と知られている。




初、臨邑侯復好學、能文章。永平中、毎有講學事、輒令復典掌焉。與班固・賈逵共述漢史、傅毅等皆宗事之。復子騊駼及從兄平望侯毅、並有才學。永寧中、訒太后召毅及騊駼入東觀、與謁者僕射劉珍著中興以下名臣列士傳。騊駼又自造賦・頌・書・論凡四篇。
(『後漢書』列伝第四、斉武王縯伝)


この「臨邑侯」というのはまず間違いなく光武帝の兄劉伯升(斉武王劉縯)の孫から枝分かれした家のことを指している。




そしてこの臨邑侯の家は初代の劉復とその子の劉騊駼を輩出した学問の家系であった。




後漢王朝の中においては「臨邑侯」といえば「ああ、あの優秀な人が出た家か」みたいにピンとくるような家だったのだろう。



劉備がその家の系統であるという説がどこから出てきたのかは分からない*1が、後漢王朝内においては、たぶん「中山靖王の子孫」よりも「光武帝の兄の子孫」にして「学問の家臨邑侯家の出」の方がより見栄えの良い出自だったろう。

*1:劉備が詐称したのかもしれないし、誰かが誤解したのかもしれないし、敵国魏で生じた事実無根の噂なのかもしれない。