母の身分

是月、新遷王安病死。初、莽為侯就國時、幸侍者筯秩・懐能・開明。懐能生男興、筯秩生男匡・女曅、開明生女捷、皆留新都國、以其不明故也。
及安疾甚、莽自病無子、為安作奏、使上言「興等母雖微賤、屬猶皇子、不可以棄。」章視羣公、皆曰「安友于兄弟、宜及春夏加封爵。」於是以王車遣使者迎興等、封興為功脩公、匡為功建公、曅為睦脩任、捷為睦逮任。
【注】
師古曰「言侍者或與外人私通所生子女、不可分明也。」
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下、地皇二年)

王莽は失脚時代に侍女たちをコマして子供を産ませていたが、「本当に自分の子かわからないから」という理由でずっと領国に留めていたのだという。



つまりちゃんと認知しなかったということなのだろう。





それは王莽が皇帝になってからも続いていたようだが、正妻との間の男子を全て失った際、最後の子王安がその子たちも皇子であるから迎え入れるべきとの遺言を王莽にしたため、王莽はその子供たちを正式に皇子として迎え入れたということである。





王莽がその子たちを秘していたのは自分の評判に関わるからでもあったのだろうが、「下賤の侍女が産んだ子の父が本当に自分なのかわかったものではない。だから我が子として扱わない」という態度は、もしかすると王莽に限らず良く見られたことだったのかもしれない。



この時代や後漢末など、母親が微賤ということから父に差別されたという話をたまに見かけるように思うが、これもただ母の身分が卑しいからというだけではなく、父にとって「我が子かどうか確信できない」ことが影を落としているのかも。