李広、敗死する

初、卷人維艴、訞言稱神、有弟子數百人、坐伏誅。後其弟子李廣等宣言艴神化不死、以誑惑百姓。十七年、遂共聚會徒黨、攻沒羑城、殺羑侯劉閔、自稱「南岳大師」。遣謁者張宗將兵數千人討之、復為廣所敗。於是使(馬)援發諸郡兵、合萬餘人、撃破廣等、斬之。
(『後漢書』列伝第十四、馬援伝)


後漢初期、光武帝建武十七年頃に「南岳大師」李広が反乱を起こした。




この李広はもとは維艴という怪しい教祖様の弟子であったが、維艴が誅殺された後、「教祖は死んでなどいない!一段高いステージに登られただけである!」と主張して人々を扇動した。



ついには羑城を落とし、派遣された討伐軍を破るまでに至ったが、最終的には馬援に討たれたとのことである。





カルト教団の教祖は世を去ってもなお人々を惑わせる場合がある、というところか。


むしろこの場合、死んでしまったことで逆に伝説が完成したようなところがあったのかもしれない。