陳咸の処世

為太子置師友各四人、秩以大夫。以故大司徒馬宮為師疑、故少府宗伯鳳為傅丞、博士袁聖為阿輔、京兆尹王嘉為保拂、是為四師。故尚書令唐林為胥附、博士李充為犇走、諫大夫趙襄為先後、中郎將廉丹為禦侮、是為四友。又置師友祭酒及侍中・諫議・六經祭酒各一人、凡九祭酒、秩上卿。琅邪左咸為講春秋・潁川滿昌為講詩・長安國由為講易・平陽唐昌為講書・沛郡陳咸為講禮・崔發為講樂祭酒。遣謁者持安車印綬、即拜楚國龔勝為太子師友祭酒、勝不應徴、不食而死。
(『漢書』巻九十九中、王莽伝中、始建国三年)

陳寵字昭公、沛國洨人也。曾祖父咸、成哀輭以律令尚書。平帝時、王莽輔政、多改漢制、咸心非之。及莽因呂𥶡事誅不附己者何武・鮑宣等、咸乃歎曰「易稱『君子見幾而作、不俟終日』、吾可以逝矣!」即乞骸骨去職。及莽簒位、召咸以為掌寇大夫、謝病不肯應。時三子參・豐・欽皆在位、乃悉令解官、父子相與歸郷里、閉門不出入、猶用漢家祖臘。人問其故、咸曰「我先人豈知王氏臘乎?」其後莽復徴咸、遂稱病篤。於是乃收斂其家律令書文、皆壁藏之。
(『後漢書』列伝第三十六、陳寵伝)


上の『漢書』王莽伝中によると王莽は太子の学問の師として数多くの儒者等を招いたようだが、その中の「沛郡陳咸」は下の『後漢書』陳寵伝にある陳寵の曽祖父のことではなかろうか。



王莽に召し出された、という部分は符合している。





後漢書』の記事では陳咸は王莽には全く仕えていなかったかのようだが、『漢書』王莽伝の方では同じように指名された龔勝は断っていることが記録されているのに対して陳咸については何も書かれておらず、また当初は息子たちは普通に王莽政権下で仕官していたようでもあるので、もしかすると王莽によって「講礼」に選ばれた当初は拒絶していなかった可能性もあるのかもしれない。





もちろん、これは確実なこととは言えないし、そもそも同姓同名の別人である可能性も捨てきれないが*1

*1:そもそも、自分は『漢書』王莽伝の方の陳咸を陳万年の息子のことだと思っていたし。だがそちらの陳咸は王莽時代には既に死んでいるのだ。