『漢書』王莽伝を読んでみよう:下その18

その17の続き。


是月、新遷王安病死。
初、莽為侯就國時、幸侍者筯秩・懐能・開明。懐能生男興、筯秩生男匡・女曅、開明生女捷、皆留新都國、以其不明故也。及安疾甚、莽自病無子、為安作奏、使上言「興等母雖微賤、屬猶皇子、不可以棄。」章視羣公、皆曰「安友于兄弟、宜及春夏加封爵。」
於是以王車遣使者迎興等、封興為功脩公、匡為功建公、曅為睦脩任、捷為睦逮任。
孫公明公壽病死、旬月四喪焉。莽壊漢孝武・孝昭廟、分葬子孫其中。
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)

この月、新遷王王安が病死した。



以前、王莽が列侯で領土へ赴いていた時、下女の増秩・懐能・開明を寵愛し、懐能は男子の興を、増秩は男子の匡と女子の曅を、開明は女性の捷を産んだが、皆領土の新都国に留め置いた。下女であり血統が明らかではないと考えたからである。
しかし王安が重体となったとき、王莽は我が子がいなくなってしまうことを問題視し、王安に「王興らは母が微賤の者であるとはいえ、それでも皇子に当たるので、捨てておいてはいけません」と上奏させた。
王莽はその上奏文を公たちに諮問したところ、みな「新遷王安は兄弟思いであります。春・夏になったらその子たちに爵位と領土を銜えるべきです」と答えた。



そこで王の馬車で王興らを迎えさせ、王興を功修公に、王匡を功建公に、王曅を睦修任に、王捷を睦逮任に封建した。



王莽の孫の公明公王寿が死去し、ひと月ほどの間に四回も葬儀が行われた。王莽は漢の武帝廟・昭帝廟を取り壊し、自分の子孫をそこに葬った。



王莽の男子、初めて自殺以外の理由で死ぬ。



というか王莽の男子は(公式には)4人だったので、これで全滅である。



そこで王莽はそれまで隠していた庶子を呼び寄せることにしたのであった。ジョセフ・ジョースターかよ、とか言ってはいけない




儒者としての清廉さといった品行・徳目を武器にのし上がった王莽としては、下女に子供を産ませたというのは表に出したくない事実だったのだろうが、後継ぎ不在の危機とあってそうも言ってられなくなったということか。





ところで、王興らの庶子がいたと思われるのは王莽の領土である南陽郡の新都国だが、これは漢代における王莽の領土(王莽即位直前に孫の王宗に譲り渡されている)であるが、新王朝の時代にはこの新都国はどういう扱いだったんだろうか?


王莽即位時点では新都侯は王莽の孫の王宗だったのだが、それ以降この新都国がどういう扱いになっていったのかイマイチわからない。




知っている方がいらっしゃったら教えていただけると幸いであります。