『漢書』王莽伝を読んでみよう:中その26

その25の続き。


為太子置師友各四人、秩以大夫。
以故大司徒馬宮為師疑、故少府宗伯鳳為傅丞、博士袁聖為阿輔、京兆尹王嘉為保拂、是為四師。
尚書令唐林為胥附、博士李充為犇走、諫大夫趙襄為先後、中郎將廉丹為禦侮、是為四友。
又置師友祭酒及侍中・諫議・六經祭酒各一人、凡九祭酒、秩上卿。
琅邪左咸為講春秋、潁川満昌為講詩、長安國由為講易、平陽唐昌為講書、沛郡陳咸為講禮、崔發為講樂祭酒。
遣謁者持安車印綬、即拜楚國龔勝為太子師友祭酒、勝不應徴、不食而死。
(『漢書』巻九十九中、王莽伝中)

太子のために師・友をそれぞれ四人ずつ置くこととし、秩禄は大夫相当とした。



元の大司徒馬宮を師疑とし、元の少府宗伯鳳を傅丞とし、博士袁聖を阿輔とし、京兆尹王嘉を保拂とした。これが四師である。



元の尚書令唐林を胥附とし、博士李充を奔走とし、諌大夫趙襄を先後とし、中郎将廉丹を禦侮とした。これが四友である。



また師友祭酒および侍中、諫議、六経祭酒をそれぞれ一人置いた。全部で九人の祭酒であり、秩禄は上卿相当とした。



琅邪の左咸を講『春秋』祭酒とし、潁川の満昌を講『詩』祭酒とし、長安の国由を講『易』祭酒とし、平陽の唐昌を講『書』祭酒とし、沛郡の陳咸を講『礼』祭酒とし、崔発を講『楽』祭酒とした。



謁者を派遣して座席付きの車と印綬を持たせて楚国の龔勝を太子師友祭酒に任命しようとしたが、召集に応じず、食事を取らずに死んでしまった。



王莽、皇太子の教育係を決める。元三公九卿といった大物が多数付けられていて、思ったより本格的な気もするが、数だけいてもなあ、という気もしないでもない。




「祭酒」というのはとても大雑把にいえば「リーダー」みたいなものだろうか。


たとえば城島くんはTOKIO祭酒なのであろう。



莽既簒國、遣五威將帥行天下風俗、將帥親奉羊酒存問(龔)勝。
明年、莽遣使者即拜勝為講學祭酒、勝稱疾不應徴。
後二年、莽復遣使者奉璽書、太子師友祭酒印綬、安車駟馬迎勝、即拜、秩上卿。
(『漢書』巻七十二、龔勝伝)

龔勝は実は最初は講學祭酒に任命されたが受けず、そのあとになってから太子師友祭酒をまた受けず、という流れらしい。


暉等白使者語、勝自知不見聽、即謂暉等「吾受漢家厚恩、亡以報、今年老矣、旦暮入地、誼豈以一身事二姓、下見故主哉?」
勝因敕以棺斂喪事「衣周於身、棺周於衣。勿隨俗動吾冢、種柏、作祠堂。」語畢、遂不復開口飲食、積十四日死、死時七十九矣。
(『漢書』巻七十二、龔勝伝)

そして、彼は「どうして一人の身で二姓に仕えることができようか」と言い、あとは自分の死後のことだけ言い残してあとは何も言わず、何も食べずに十四日後に死んでしまったのだそうだ。「周の粟を食わず」という伯夷らの故事と同様に、新の物は口にしない、ということなのだろう。