肉刑と冤罪

追記あり

潁川太守髡陳仲弓。客有問元方「府君何如?」元方曰「高明之君也」「足下家君何如?」曰「忠臣孝子也」客曰「易稱『二人同心、其利斷金。同心之言、其臭如蘭』何有高明之君而刑忠臣孝子者乎?」元方曰「足下言何其謬也!故不相答」客曰「足下但因傴為恭、不能答」元方曰「昔高宗放孝子孝己、尹吉甫放孝子伯奇、董仲舒放孝子符起*1。唯此三君、高明之君。唯此三子、忠臣孝子」客慚而退。
(『世説新語』言語第二)


時の潁川太守は、かの陳寔を髡(髪を剃る刑罰)に処した。
後漢書』陳寔によれば冤罪であるという。


ある客が陳寔の子陳紀に対し「あれあれ〜?太守も立派、陳寔さんも立派なのになんで陳寔さんは髡刑になったの〜?おかしいな〜」とムカツク質問を投げかけた。

陳紀は「殷の高宗や周の尹吉甫、漢の董仲舒は孝行息子を放逐しています。父も子も立派であってもこういうことは起こるのです。はい論破」と答えたので、その客は恥じ入って逃げたという。





曹操の時代、陳紀の子である陳群は曹操の諮問に答えて肉刑復活に反対した。


陳群が肉刑に反対した裏には、祖父が現に髡という刑罰を冤罪で受けたという苦い経験があるのかもしれない。

冤罪の恐ろしさを良く知る陳紀・陳群としては、取り返しのつかない肉刑は反対して当然なのではかろうか。



【追記3月6日】
コメント欄で殷景仁さまがおっしゃているように、陳群は肉刑賛成派でした。
私の全くの誤読、不勉強によるもので申し訳ない。

しかし、それはそれで面白い。祖父がそんな冤罪を受けてもなおそう考えていたわけか。
肉刑やってたら仲弓さんどっかぶったぎられてたかもしれないのに。



*1:董仲舒に符起なる息子がいて、彼を放逐したという話は聞いたことが無い。 当時何かそういう話が伝わっていたのだろうか。