人質

刑竟、徴、再遷上谷太守、又為漢陽太守。時上邽令皇甫禎有臧罪、(橋)玄收考髡笞、死于冀巿、一境皆震。
郡人上邽姜岐、守道隠居、名聞西州。玄召以為吏、稱疾不就。玄怒、勑督郵尹益逼致之、曰「岐若不至、趣嫁其母。」益固爭不能得、遽曉譬岐。岐堅臥不起。郡内士大夫亦競往諫、玄乃止。時頗以為譏。
(『後漢書』列伝第四十一、橋玄伝)


後漢後期の人物、橋玄


彼は曹操を評価したので、知っている人も多いだろう。



そんな彼は酷吏的な人物であったらしく、こんな話が見える。



彼が漢陽(旧名天水)太守となった時、姜岐という隠士を召し出そうとしたが、姜岐は病気と称して出てこなかった。


そこで橋玄は「もし姜岐が出てこないなら、奴の母を再婚させてしまえ」と命じた*1

母を強制的に再婚させる。いわば母を人質にして脅しをかけたのである。


姜岐はそれでも出てこず、橋玄は郡内の名士たちの猛反対に遭ったためにこの脅しを実行するのは取りやめたが、その強引な手法はさすがに評判を落としたそうだ。




この手法の発展系が「召し出した名士が出てこないと隠れている山に火をつけてあぶり出す」なのかもしれない。




なお、橋玄は自分が我が子を人質に取られると人質もろとも賊を攻撃させ、自分のみならず国中に「人質を取った立て籠もり犯とは交渉せず人質もろとも賊を殺す」ことを徹底させた。

こういう思想を持ちながら自分は人質を使って脅迫するというリアリストぶりはなかなか素晴らしい。




*1:『三輔決録』では母を再婚させた上で姜岐を殺せと命じたことになっていて、しかも諫言した部下に棒叩きを与えたとも書かれており、暴虐性が強調されているようだ。