親孝行の果て

(崔)烈於是聲譽衰減。久之不自安、從容問其子鈞曰「吾居三公、於議者何如?」鈞曰「大人少有英稱、歴位卿守、論者不謂不當為三公。而今登其位、天下失望。」烈曰「何為然也?」鈞曰「論者嫌其銅臭。」烈怒、舉杖撃之。鈞時為虎賁中郎將、服武弁、戴鶡尾、狼狽而走。烈罵曰「死卒、父檛而走、孝乎?」鈞曰「舜之事父、小杖則受、大杖則走、非不孝也。」烈慙而止。
【注】
家語曰「曾子耘瓜、誤傷其根。曾翛怒、建大杖以撃其首。曾子仆地不知人、有頃乃蘇。孔子聞之怒、謂門弟子曰『參來勿内也。昔瞽叟有子曰舜、瞽叟欲使之、未嘗不往、則欲殺之、未嘗可得。小箠則待、大杖則逃、不陷父於不義也。』」
(『後漢書』列伝第四十二、崔寔伝)


後漢の人崔烈はあの売官で三公になったという悪評があり、そのことを息子崔鈞に指摘されると怒ってその息子を撲殺しようとした。



息子崔鈞は武官の恰好をしていたにもかかわらず無様に逃げ惑ったが、父から「父から逃げるとは孝行者ではない」と言われた時に、「父に鞭打たれたらそれを甘んじて受けるが、父に撲殺されそうなら逃げるというのは、親不孝だからではありません」と答えた。




これは、あの孔子こと孔丘先生によると「父に撲殺されてしまったら、父が汚名を被ることになる」からなのだそうだ。




甘んじて殺されるのも不孝だし、もちろん正当防衛だからと返り討ちにするのも不孝。この場合は逃げることだけが唯一の親孝行ということらしい。





鈞少交結英豪、有名稱、為西河太守。獻帝初、鈞與袁紹倶起兵山東董卓以是收烈付郿獄、錮之、鋃鐺鐵鎖。卓既誅、拜烈城門校尉。及李傕入長安、為亂兵所殺。
(『後漢書』列伝第四十二、崔寔伝)


そんな親孝行者の崔鈞は袁紹曹操らの挙兵に参加したため、董卓は父の崔烈を投獄した。



なかなかに酷いオチが付いている。