侍中の居場所

漢世、與中官倶止禁中。武帝時、侍中莽何羅挾刃謀逆、由是侍中出禁外、有事乃入、事畢即出。王莽秉政、侍中復入、與中官共止。章帝元和中、侍中郭舉與後宮通、拔佩刀驚御、舉伏誅、侍中由是復出外。
(『宋書』巻三十九、百官志上、侍中)


漢代の侍中は、最初は宦官のように禁中に入って皇帝の側仕えしていたのだが、武帝末期の侍中馬何羅*1が皇帝暗殺を謀ったことから禁中から出され、必要な時だけ禁中に入るように変えられた。


王莽の時代以降、また以前のように禁中に入る官となっていたが、章帝の時の侍中郭挙が後宮の女性を刀で脅して行為に及ぶという事件を起こして以降、また侍中は禁中から出されるようになった。



侍中は就任者の事件によって2度にわたり後宮から出されている。

出されている期間中に宦官が権力を握った時代が含まれているのは偶然なんだろうか。

*1:同族である後漢の馬皇后が自分の同族の恥を隠すために姓を変えて書かせた。