韓王信の子孫

晉穆侯生桓叔、桓叔生韓萬、傅晉大夫、十世而為韓武侯、五世為韓惠王、五世而亡國。襄王之孽孫信、俗人謂之韓信都。高祖以信為韓王孫以信為韓王、後徙王代、為匈奴所攻、自降之。漢遣柴將軍撃之、斬信於參合、信妻子亡入匈奴中。
至景帝、信子頹當及孫赤來降、漢封頹當為弓高侯、赤為襄城侯。及韓嫣、武帝時為侍中、貴幸無比。案道侯韓説、前將軍韓曾、皆顯於漢。
子孫各隨時帝分陽陵・茂陵・杜陵。及漢陽・金城諸韓、皆其後也。信子孫餘留匈奴中者、亦常在權寵、為貴臣。
(王符『潜夫論』志氏姓第三十五)

劉邦が漢王だった時の韓王韓信。いわゆる韓王信。

彼は色々あって北の匈奴に逃げ込んだが子孫がまた漢に戻ってきて、そこで子孫たちが大いに栄えた。

三輔の陽陵・茂陵・杜陵(皇帝陵のある県。当時の高官が移住した)の韓氏や、漢陽(天水)・金城の韓氏は皆この韓王信の子孫だという。



金城邊章・韓遂殺刺史郡守以叛、眾十餘萬、天下騷動。徴太祖為典軍校尉。
(『三国志』巻一、武帝紀)

ということは、三国志ッ娘ならみんな知っているであろう韓遂も、確証があるわけではないが遠い先祖は韓王信ということなのだろう。