明元郭皇后、西平人也、世河右大族。
(『三国志』明元郭皇后伝)
魏の明帝の皇后となった郭氏。諡から明元郭皇后と呼ばれている。
帝之幸郭元后也、后愛寵日弛。景初元年、帝游後園、召才人以上曲宴極樂、元后曰「宜延皇后」、帝弗許。
(『三国志』明悼毛皇后伝)
その郭皇后の前に明帝の皇后だった毛氏。彼女の寵愛が郭氏に移った頃、明帝が毛皇后だけをハブるという事件が起こった。
事件自体は今回どうでもいいのだが、そこで郭氏のことを「元后」と表記している。
元后といえば、王莽の叔母、元帝の皇后で成帝の母である王政君のことを『漢書』でそう呼んでいる。
少なくとも『漢書』においては、「元后」というのは特別な意味を持つ呼称なのだ。
『三国志』での「元后」に『漢書』のそれのような意味が込められていたのかはわからない。
しかし、『三国志』明元郭皇后伝にはこういう記述もある。
これは王莽と初代「元后」の関係と同じである。
少なくとも陳寿は意識的に郭皇后と「元后」を重ね合わせようとした可能性があると思う。*1