孔融と甄氏の関係

初、曹操攻屠鄴城、袁氏婦子多見侵略、而操子丕私納袁熙妻甄氏。融乃與操書、稱「武王伐紂、以妲己賜周公」。操不悟、後問出何經典。對曰「以今度之、想當然耳。」
(『後漢書』列伝第六十、孔融伝)

後漢末の孔融曹操の息子曹丕袁紹の息子の妻である甄氏を略奪したことをあてこすったという。




文昭甄皇后、中山無極人、明帝母、漢太保甄邯後也、世吏二千石。
(『三国志』巻五、文昭甄皇后伝)

その甄氏とはのちの明帝の母であるが、彼女の出身である甄氏は漢代に甄邯という高官を輩出したという。




(王)莽以大司徒孔光名儒、相三主、太后所敬、天下信之、於是盛尊事光、引光女壻甄邯為侍中奉車都尉。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

その甄邯というのは孔光の娘婿ということで王莽に取り立てられた人物で、最終的には王莽の懐刀というべき存在となり、簒奪後の新王朝では大司馬にまで至っている。



孔光字子夏、孔子十四世之孫也。
(『漢書』巻八十一、孔光伝)

で、その義父である孔光というのはかの孔丘先生こと孔子の子孫である。







孔融と甄氏の間には、遠い祖先(直系じゃないかもしれないが)が縁戚であったという関係があった。



もっとも、孔融がそれを意識して皮肉とも遠回しな諫言とも取れるようなことを曹操に対して記したのかどうかは怪しいものだとは思うが。