西平の郭氏

明元郭皇后、西平人也、世河右大族。黄初中、本郡反叛、遂沒入宮。
(『三国志』巻五、明元郭皇后伝)

魏の明帝の郭皇后の実家は涼州西平郡の郭氏で、この家は代々大族であったが黄初年間(曹丕時代)の反乱が原因で身分を落とされたのだという。




郭憲字幼簡、西平人、為其郡右姓。
建安中為郡功曹、州辟不就、以仁篤為一郡所歸。
至十七年、韓約失衆、從羌中還、依憲。衆人多欲取約以徼功、而憲皆責怒之言「人窮來歸我、云何欲危之?」遂擁護厚遇之。其後約病死、而田樂・陽逵等就斬約頭、當送之。逵等欲條疏憲名、憲不肯在名中、言我尚不忍生圖之、豈忍取死人以要功乎?逵等乃止。
時太祖方攻漢中、在武都、而逵等送約首到。太祖宿聞憲名、及視條疏、怪不在中、以問逵等、逵具以情對。太祖歎其志義、乃并表列與逵等並賜爵關内侯、由是名震隴右。黄初元年病亡。正始初、國家追嘉其事、復賜其子爵關内侯。
(『三国志』巻十一、王修伝注引『魏略』)

確かに、西平郡における郭氏は、追いつめられた韓遂が頼るなど現地豪族の中でも大きな勢力だったように思われる。




太祖崩、西平麴演叛、稱護羌校尉。(蘇)則勒兵討之。演恐、乞降。文帝以其功、加則護羌校尉、賜爵關内侯。
後演復結旁郡為亂、張掖張進執太守杜通、酒泉黄華不受太守辛機、進・華皆自稱太守以應之。又武威三種胡並寇鈔、道路斷絶。
(『三国志』巻十六、蘇則伝)

曹操死後の西平郡を含む涼州の反乱は西平郡の麴演が主導したように記されているが、そうなると西平郡でも特に大きな勢力を誇っていたらしい郭氏は反乱に対してどんなスタンスだったんだろうか?




西平の郭氏があまり表に出てこないのは、少しだけだがひっかかるものを感じる。