中興の祖

魏氏春秋曰、二月丙辰、帝宴群臣於太極東堂、與侍中荀邈・尚書崔贊・袁亮・鍾毓・給事中中書令虞松等並講述禮典、遂言帝王優劣之差。帝慕夏少康、因問邈等曰「有夏既衰、后相殆滅、少康收集夏衆、復禹之績、高祖拔起隴畝、驅帥豪儁、芟夷秦・項、包舉寓內、斯二主可謂殊才異略、命世大賢者也。考其功紱、誰宜為先?邈等對曰・・・」
(『三国志』高貴郷公紀注引『魏氏春秋』)

三国魏の皇帝で学者としても知られる高貴郷公は、ある時こんなことを側近に質問した。
「夏の少康と漢の高祖はどちらも「大賢」だが、どっちが上であろうか」と。

詳細は省くが、興業の主である高祖の方が中興の君主である少康より上とした側近達に対し、高貴郷公は「徳は少康が上であり、武功は高祖が上である。武功と徳では徳がより上であるから、高祖より少康の方が勝っている。それに、少康の時代は武力よりも徳を用いるべき時だったから徳を用いたのであって、武力も高祖に劣っているという証拠は無い」と主張して少康>高祖であると結論付け、側近達は高貴郷公の論に服した。

いくら傀儡状態とはいえ皇帝であるから、そうそう皇帝の主張に真っ向から反論はしにくい。だからこの結果自体は出来レースの可能性が高いが、高貴郷公がこのような主張をしたということはとても興味深い。
つまり、高貴郷公は少康に自分を重ね合わせ、「自分は少康のような中興の祖になる」と宣言すると共に、「武力で天下を平定しても徳をもって君臨する中興の祖には敵わないのだ」と主張しているのだ。


司馬氏が魏の武力を事実上独占し、いずれ蜀や呉を攻め取ったとしても、既に君臨する有徳の高貴郷公の方が皇帝の資質として上ということだ。
つまり、高貴郷公が有徳の君主である限り、司馬氏が天下を統一したとしても司馬氏が禅譲革命により皇帝となることは無いということになる。
より皇帝としての資質に劣る者に帝位を譲る必要は無いのだ。


この少康と高祖の優劣議論は単なる学問上の話でも言葉遊びでもなく、思想面からの司馬氏による禅譲革命封じであると言えよう。
習鑿歯が魏王朝を偽王朝扱いすることで桓温による禅譲革命に待ったをかけようとしたのと同じような発想なのではないかと思われる(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20090324/1237900422)。

実効力を持っていたかどうかは別として、この試みは高貴郷公による司馬氏抑制の策の一つであったということだ。