楽団員の再就職

是時、鄭聲尤甚。黃門名倡丙彊・景武之屬富顯於世、貴戚五侯・定陵・富平外戚之家淫侈過度、至與人主爭女樂。
哀帝自為定陶王時疾之、又性不好音、及即位、下詔曰「(略)其罷樂府官。郊祭樂及古兵法武樂、在經非鄭・衛之樂者、條奏、別屬他官」
丞相孔光・大司空何武奏、「(略)師學百四十二人、其七十二人給大官挏馬酒、其七十人可罷。大凡八百二十九人、其三百八十八人不可罷、可領屬大樂、其四百四十一人不應經法、或鄭・衛之聲、皆可罷。」
(『漢書』礼楽志)

漢の哀帝は淫乱の音楽と言われていた鄭の音楽の流行(ちなみに元帝が音楽大好きであり、儒者が眉をひそめるような音楽の流行も元帝が原因の一つではないかと思われる。)を苦々しく思っており、皇帝に即位すると朝廷の音楽を統括する楽府廃止と楽団リストラを断行した。


そこで丞相らはリストラ案を上奏するわけだが、その中では「其七十二人給大官挏馬酒、其七十人可罷。」と、廃止後の楽団員の就職先まで指定していた。


なぜここで「大官挏馬酒」が指定されたのか。
楽団員と馬にどんな関係が有るのか。


「挏馬」とは何かというと・・・

應劭曰「主乳馬、取其汁挏治之、味酢可飲、因以名官也」
如淳曰「主乳馬、以韋革為夾兜、受數斗、盛馬乳、挏取其上肥、因名曰挏馬。禮樂志丞相孔光奏省樂官七十二人、給大官挏馬酒。今梁州亦名馬酪為馬酒」
(『漢書』百官公卿表上、太僕、注)

つまり、馬乳を集めたものを突いて攪拌し、上澄みを取っ飲んでいたというのである。「馬酪」の一種だろうか。

これを作るのが「挏馬」と言う官であり、哀帝リストラによって楽団の一部はここに回されたことになる。

攪拌のために掛け声かけてリズムを取るとかしていたから楽団員が適任と思われたのか、それともそういった仕事なら勤まるだろうという判断だったのかは分からない。
もしかするとだが、楽団員には盲目など他の仕事に就きがたい状態の者が多かったのかもしれない。