大司馬について

漢王朝の大司馬について。

漢には大司馬という官があったが、時代によってその中身が変わっている。

まず、大司馬は漢の武帝の時代、衛青、霍去病に対して与えられたことに始まる。
これはどうやら将軍筆頭、とでもいうべき称号のようで、大司馬のみでは兵を率いる権限や独自の組織を持たなかった。

その後、前漢末まで大司馬は最高位の将軍に加えられる称号であった。

前漢末、官制改革があり、大司馬の官もその対象となった。
具体的には、「大司馬+将軍」が「大司馬」だけとなり、最終的には三公の筆頭として位置づけられたのである。
ここで重要なのは、この時の大司馬は独自の組織と、三公の一つという独自の職務を持つようになったこと、およびその前身が将軍であったことである。

これ以降、大司馬は三公筆頭という行政の長としての面と、最高位の将軍が改称したという軍事的な長という面との二つの面を持つようになったと言える。

新王朝や後漢の初期においては大司馬は極めて重い存在であった(光武帝が大司馬であったことも注意すべき点であろう)わけだが、光武帝の時代に大司馬は太尉と改称され、大司馬の名称は消滅する。

それが復活するのは後漢末であった。
混乱の極みにあった漢王朝は太尉劉虞を大司馬に任命し、後任の太尉に董卓を任命した。
ここから分かるのは、大司馬は当時の三公である太尉よりも上位の存在であり、また少なくともこの段階では太尉と大司馬は別々の職務を持つ存在であったと認識されていたことである。

その後、しばしば大司馬が任命されたり、大司馬を自称する者が現れたりする。
ここで特徴的なのは、張楊などの在任者の前任官や同輩の官位から推測すると、この頃の大司馬は将軍位の最上位の存在として認識されていたように思われることである。

前漢の称号のみでもなく、前漢末から後漢初にかけての行政の長としての側面でもなく、軍事面での長という面が特にクローズアップされているということになるだろう。

魏や蜀漢ではそれが更に明確化し、どちらの王朝でも大将軍のもう一段上の官として大司馬が位置づけられている。呉では大司馬が左右に分割されたりしているが、やはり大将軍より上位に位置づけられているように思われる。