三国志はじめての官職:三公

えっこの記事やめたんじゃないのかって?気のせいじゃないですかね・・・?






前回までの記事で、曹操の時に「三公」を統合して「丞相」にした、と述べた。



ではその「三公」とはなんであるか。



太尉、公一人。
本注曰、掌四方兵事功課、歳盡即奏其殿最而行賞罰。凡郊祀之事、掌亞獻。大喪則告謚南郊。凡國有大造大疑、則與司徒・司空通而論之。國有過事、則與二公通諫爭之。
(『続漢書』志第二十四、百官志一、太尉)

司徒、公一人。
本注曰、掌人民事。凡教民孝悌遜順謙儉養生送死之事、則議其制、建其度。凡四方民事功課、歳盡則奏其殿最而行賞罰。凡郊祀之事、掌省牲視濯、大喪則掌奉安梓宮。凡國有大疑大事、與太尉同。
(『続漢書』志第二十四、百官志一、司徒)

司空、公一人。
本注曰、掌水土事。凡營城起邑・浚溝洫・修墳防之事、則議其利、建其功。凡四方水土功課、歳盡則奏其殿最而行賞罰。凡郊祀之事、掌掃除樂器、大喪則掌將校復土。凡國有大造大疑、諫爭、與太尉同。
(『続漢書』志第二十四、百官志一、司徒)

三公」は「太尉」「司徒」「司空」の三人の大臣の総称である。



丞相復活までは、この三人が宰相だったということになる。




太尉はなんとなくわかると思うが軍事、司徒は民生や地方統治、司空は土木事業等を担当し、それぞれについての勤務評定や賞罰、重要事項の議論などを司った。



その構成そのものは丞相と大体同じようなもので、それぞれ独自の官庁「府」を持っていた。




この三公は戦場に行ったりはしないので、どうしても三国志の話の中ではあまりクローズアップされにくいところがあるが(曹操は例外)、この三公とその府が裏方で国政を切り盛りしていたのだ、と言うこともできるだろう。



魏文帝黄初二年六月戊辰晦、日有蝕之。有司奏免太尉、詔曰「災異之作、以譴元首、而歸過股肱、豈禹湯罪己之義乎!其令百官各虔厥職。後有天地眚、勿復劾三公。」
(『晋書』巻十二、天文志中)

また、漢王朝では日食などの天変地異が起こると、これを天が政治に対して怒って譴責しているのだと考え、それを鎮めるために三公を弾劾して罷免していた。



こういったことも、当時の三公が政治の責任者と認識されていたからこそ起こったことなのではないかと思う。


仮にそれが皇帝による責任逃れのような面があったにせよ、全くの下っ端なら責任を取らせることもできないだろう。





もっとも、三国志の時代の大半は曹操が丞相だったり諸葛亮が丞相だったりしており、この三公がいない時代も長い。



どの時代でも常に三公がいたわけではないことは注意が必要である*1

*1:蜀漢では諸葛亮死後丞相がいなかったが、三公も基本見つかっていない。