前漢の太尉について

昨日の
http://d.hatena.ne.jp/T_S/20090816/1250425850
の続き。

前漢の大司馬(+将軍)の前身は太尉であると通常説明される。

これは『漢書』百官公卿表上にそういう風に書いてあるのだから当然だが、実際にはどうも色々難しいところがあるように思う。

まず、『漢書』百官公卿表上ではまるで太尉が武帝建元2年までずっと存在していたかのように読めるが実際にはそうではない。

太尉は実際にその官に人がいた時期が少ない。

前漢最初期の盧綰、高祖11年および恵帝6年から文帝前元年までの周勃、文帝前元年から同3年までの灌嬰、景帝前3年から同7年までの周亜夫、武帝建元元年から翌年までの田蚡。

他の時期は基本的に『漢書』百官公卿表下などに記録が無く、彼らが官を遷ると「官省く」と記録されており、店じまいしていたことが明らかになっている。

なお上記の太尉の存在期間は初期で反乱討伐などの軍事があった時期、恵帝から呂后時代、文帝初期という不穏な時代、呉楚七国の乱の時、若い武帝の即位直後、とそれぞれ軍事的な混乱があったか、それが予想された時期である。

この頃の太尉は、皇帝を補佐または代わりになって軍事面を統括し指揮するような官であったように推測されるが、これはあくまでも常置ではなかった。

この時の太尉は確かに大司馬+将軍であるとか、後漢の大将軍や大司馬には似た側面を持つが、三公筆頭とされた後漢の太尉とは少々毛色が違う存在だったようである。