ふとした疑問

(初平四年)下邳闕宣聚衆數千人、自稱天子。徐州牧陶謙與共舉兵、取泰山華・費、略任城。秋、太祖征陶謙、下十餘城、謙守城不敢出。
(『三国志』巻一、武帝紀)

三年、舉高第、再遷、六年、拝太山太守。
初平二年、黄巾三十萬衆入郡界。(應)劭糾率文武連與賊戰、前後斬首數千級、獲生口老弱萬餘人、輜重二千両、賊皆退却、郡内以安。
興平元年、前太尉曹嵩及子徳從琅邪入太山、劭遣兵迎之、未到、而徐州牧陶謙素怨嵩子操數撃之、乃使輕騎追嵩・徳、並殺之於郡界。劭畏操誅、弃郡奔冀州袁紹
(『後漢書』列伝第三十八、応劭伝)

ふと思ったのだが、初平4年頃に下邳の闕宣という者が泰山を侵略して華県や費県を占領したというが、あの30万の黄巾賊をも追い払った応劭こと風俗通先生は、この闕宣に対してはどんな対応をしたんだろうか?



それだけ。自分で納得できる解釈を思いつくか、誰か教えてくれたらまた書く。

アルハラ平原君

平原君與子高飲、強子高酒曰「昔有遺諺。堯・舜千鍾、孔子百觚、子路嗑嗑、尚飲十榼。古之賢聖、無不能飲也。吾子何辭焉。」
子高曰「以穿所聞、賢聖以道徳兼人、未聞以飲食也。」
平原君曰「即如先生所言、則此言何生。」
子高曰「生於嗜酒者。蓋其勸厲奬戲之辭、非實然也。」
平原君欣然曰「吾不戲子、無所聞此雅言也。」
(『孔叢子』儒服第十三)

子高というのはあの孔子こと孔丘先生の子孫で、姓名は孔穿。



彼があの趙の平原君と酒を飲んだ時の話。



平原君は子高に酒を飲むよう強要した。



平原君は言う。「昔の諺では「堯や舜は千鍾、孔子は百觚、子路はあまり飲めなかったが、それでも十榼の飲めた」と言う。古の賢人・聖人たちは皆酒が飲めたのだ。それなのに貴方は俺の酒が飲めないっていうのか?」



子高は答える。「私が聞いているところでは、賢人や聖人は徳によって人を治めたのであり、飲食によって治めたのではありません」



平原君は質問する。「もし先生の言う通りだとしたら、その諺はどこから出てきたのです?」



子高は答える。「酒飲みが言い出したのでしょう。おそらく飲酒を勧める言葉であって、本当の事ではありません。」



平原君は喜んでこう言った。「私が先生に酒を強要しなかったら、この善き言葉を聞く事もなかったでしょうな」





平原君のアルコールハラスメントが酷いのはまあいいとして、「賢人・聖人はみな大酒飲みであった」と言う話が伝わっていたという事らしい。





実際にそういう話が伝わっていたのは漢代あたりなのかもしれないが、何にしろ、先日の孔融や孫晧の話は、こういう当時の伝説、風聞に基づいていたのだろう。





感謝

昨日の記事の劉宝について、諸賢よりいくつか教えていただいた



なるほど、司馬駿の下にいたり、王浚の前任者だったりした人で、字は「道真」つまり劉道真と。



西晋の人なわけだ。




やはり分からない事は素直に言ってみるものだ。



教えていただき、ありがとうございました。

ひとこと

漢書駁議二卷。晉安北將軍劉寶撰。
(『隋書』巻三十三、経籍志二、史)

この『漢書駁議』なる書の編者とされる「晋の安北将軍劉宝」って何者なんだろうか?



安北将軍ならもう少し何かの記録がありそうなものなんだが・・・。



それとも何か字の誤りでもあるんだろうか?



あるいは単に調べ方が悪いのか。

大虎だよ!孔丘先生

(孔)融集與(曹)操書云「酒之為徳久矣。古先哲王、類帝禋宗、和神定人、以濟萬國、非酒莫以也。故天垂酒星之燿、地列酒泉之郡、人著旨酒之徳。堯不千鍾、無以建太平。孔非百觚、無以堪上聖。・・・(後略)・・・
(『後漢書』列伝第六十、孔融伝注)

あの孔融さんが曹操の禁酒令に反論した書によると、五帝の一人堯や孔子こと孔丘先生などは相当な量の酒を飲んだのだ、という事になっているらしい。


後問「孤飲酒以方誰?」(張)尚對曰「陛下有百觚之量。」(孫)晧云「尚知孔丘之不王而以孤方之!」因此發怒收尚。尚書岑昬率公卿已下百餘人詣宮叩頭請、尚罪得減死。
(『三国志』巻五十三、張紘伝注引『環氏呉紀』)

なるほど、呉の皇帝孫晧と張尚の話、「ワイの飲酒はどの程度か?」というのは、上記の事を踏まえるなら、孫晧としては「千鍾」と答えてほしかったんだな。「そうか、ワイは堯か」となる。


ところがわかっててか知らずかはともかく、張尚は孔丘先生に対応する「百觚」と答えてしまったため、「俺は王になれなかった孔丘先生ってことか。皇帝の俺が。ほー、さよか」となってしまったと。



この問答はある種高等な知的遊戯なんやね。




それはそれとして孔丘先生は超巨体で超大酒飲み。張飛か何か?




あっ

あっ、Komiflo結局無料期間過ぎても契約そのままにしてた。



まあいいや、このまま続けよう。




どんどん過去作品が読めなくなっていくのは残念だが、『快楽天』以外からも気に入った作者・作品を見つけられるのはいい。

小さな疑問

漢興、仍襲秦制、置中常侍官。然亦引用士人以參其選、皆銀璫左貂、給事殿省。
及高后稱制、乃以張卿為大謁者、出入臥内、受宣詔命。
文帝時、有趙談・北宮伯子、頗見親倖。
至於孝武、亦愛李延年。帝數宴後庭、或潛游離館、故請奏機事、多以宦人主之。
元帝之世、史游為黄門令、勤心納忠、有所補益。
其後弘恭・石顯以佞險自進、卒有蕭・周之禍、損穢帝徳焉。
(『後漢書』列伝第六十八、宦者列伝)

後漢書』宦者列伝では前漢の宦官として張卿、趙談、北宮伯子、李延年、史游(『急就章』編者)、弘恭、石顕といった名を挙げている。




ん?何か足りなくない?


(司馬)遷既被刑之後、為中書令、尊寵任職。
(『漢書』巻六十二、司馬遷伝)


あの司馬遷が就任したという中書令は上記で「皇帝の徳を損ない汚した」とされる石顕と同じ官。


なんで「尊寵任職」とされる司馬遷は宦者列伝で外されてるんだろう・・・?