『南史』と『漢書』注

論曰・・・(中略)・・・據齊・梁紀録、並云出自蕭何、又編御史大夫望之以為先祖之次。案何及望之於漢倶為勳徳、而望之本傳不有此陳、齊典所書、便乖實録。近秘書監顔師古博考經籍、注解漢書、已正其非、今隨而改削云。
(『南史』巻四、斉武帝紀)

『南史』編者李延寿は、あの顔シコ先生から「南斉の蕭氏は漢の蕭何・蕭望之の子孫だと言っているが、蕭何の子孫が蕭望之だったら『漢書』蕭望之伝に何も書かれていないのはおかしい」という話を聞いた結果、「南斉の蕭氏の先祖の話は怪しいから削除した」のだそうだ。


太祖高皇帝諱道成、字紹伯、姓蕭氏、小諱鬬將、漢相國蕭何二十四世孫也。何子酇定侯延生侍中彪、彪生公府掾章、章生皓、皓生仰、仰生御史大夫望之、望之生光祿大夫育、育生御史中丞紹、紹生光祿勳閎、閎生濟陰太守闡、闡生呉郡太守永、永生中山相苞、苞生博士周、周生蛇丘長矯、矯生州從事逵、逵生孝廉休、休生廣陵府丞豹、豹生太中大夫裔、裔生淮陰令整、整生即丘令儁、儁生輔國參軍樂子、宋昇明二年九月贈太常、生皇考。蕭何居沛、侍中彪免官居東海蘭陵縣中都郷中都里。
(『南斉書』巻一、高帝紀上)

齊太祖高皇帝諱道成、字紹伯、小字鬬將,姓蕭氏。其先本居東海蘭陵縣中都郷中都里。晉元康元年、惠帝分東海郡為蘭陵、故復為蘭陵郡人。中朝喪亂、皇高祖淮陰令整、字公齊、過江居晉陵武進縣之東城里、寓居江左者、皆僑置本土、加以「南」名、更為南蘭陵人也。
(『南史』巻四、斉高帝紀


確かに『南斉書』では延々書かれている蕭何から蕭望之そして蕭道成と繋がる家系が『南史』ではバッサリカットされ、蕭何とも蕭望之とも血縁関係が明言されていない(『南史』宋武帝紀では劉裕は楚王劉交の子孫と書かれている)。




師古曰「近代譜諜妄相託附、乃云(蕭)望之蕭何之後、追次昭穆、流俗學者共祖述焉。但酇侯漢室宗臣、功高位重、子孫胤緒具詳表・傳。長倩鉅儒達學、名節並隆、博覽古今、能言其祖。市朝未變、年載非遙、長老所傳、耳目相接、若其實承何後、史傳寧得弗詳?漢書既不敘論、後人焉所取信?不然之事、斷可識矣。」
(『漢書』巻七十八、蕭望之伝注)

顔シコ先生は「あの名臣蕭何の子孫なら誰も知らないなんてことはないだろうし、学者の蕭望之も先祖のことを知らないなんてことはないだろうし、そんなに長い期間が空いているわけでもない。蕭何と蕭望之に血縁関係があるなら、分からない筈がないのだ。それなのに蕭望之の列伝で何とも言っていないのだから、蕭何と蕭望之を繋げた系譜はインチキだ」といった事を確かに言っている。



『南史』の編集にこの注が影響しているというのはちょっと面白い。