江表傳曰、(劉)備從魯肅計、進住鄂縣之樊口。諸葛亮詣呉未還、備聞曹公軍下、恐懼、日遣邏吏於水次候望(孫)權軍。吏望見(周)瑜船、馳往白備。備曰「何以知非青・徐軍邪?」吏對曰「以船知之。」備遣人慰勞之。
(『三国志』巻三十二、先主伝注引『江表伝』)
劉備が長坂の戦いの後で江夏郡に入っていた時。
諸葛亮は孫権の元へ行って孫権に曹操との対決を勧めていた。劉備は曹操の軍が来ることを恐れ、孫権の軍が来ることを待ち望み、毎日警邏の者を派遣していた。
警邏の者が「呉の船が来ました」と報告したところ、劉備は「どうして青州・徐州の軍ではないと分かった?」と訊き、警邏の者は「船を見てわかりました」と答えた。
おそらく、東方を警邏した者の報告だったので、「呉の船か、それとも曹操の側の青州・徐州から来た船か」を確認したのだろう*1。
という事は、当時の曹操の勢力圏の中で、青州や徐州からは船を出してやってくる可能性があった。言い換えれば、おそらく揚州経由で水軍を出す可能性があった、という事になるのではないか。
後の時代だが、司馬昭は蜀漢攻めの際に陽動として青・徐・兗・予・荊・揚州に船を造らせて呉を攻めるように見せかけた。
青州や徐州の船は海沿いに呉を攻める目的なのではなかろうか。劉備が到来を危惧した「青・徐軍」というのも、そういうルートでやってきた船ではないだろうか。
だが、青州・徐州といえば曹操の勢力圏ではあっても、あまり十分に支配出来ていたとは思いにくい地方である。
曹操は呉への圧力や劉備の攻撃のために青州や徐州から水軍を動員する事が出来たのか、実際には怪しいところかもしれない。
青州・徐州から十分な水軍を出せるような体制が整っていたら、曹操は呉に対して攻めも守りももっとやりようがあったのかもしれない、などと言っては流石に言いすぎだろうか。